2026.6.28「教会に属する意義 エペソ2:18-22」

現代は「家族」ということがあまり大事にされなくなりました。昔は大勢の家族構成でしたが、それが核家族になりました。さらには離婚するケースもあり、「家族って何だろう?」みたいな疑問が生まれるのではないでしょうか?聖書には創世記から家族について記されており、新約聖書ではエペソ人への手紙が家族について一番記されているのではないかと思います。でも、最も重要なのは、神さまが父であり、私たちは兄弟姉妹であるという霊的な家族に属することではないかと思います。

1.神の家族の成り立ち

 教会をいろんなものでたとえることができます。もし、教会が会社であるなら、目的は利益をあげることです。優秀で能力のある人が尊ばれるでしょう。よく伝道し、良く奉仕する人が有難がられるでしょう。もし、教会が病院であるなら、目的は体が癒され元気になることです。病の人や弱い人に仕えることが大事であり、神さまのために何を行うかについては関心がありません。人は元気になったら退院しますので、一時的にいる場所です。もし、教会が軍隊であるなら、司令官のために戦って勝利することです。何を食べるか何を着るか、日常のことには関わらないで、上からの命令を遂行することがすべてです。落伍者や怪我人は第一線から除外されてしまいます。他にも学校や組合、サークル…にたとえられるかもしれません。でも、教会が家族であるならどうでしょう?そこで生まれたなら無条件で家族になれます。能力のあるなしは関係ありません。存在そのものに価値があるのです。私は子供たちに「良く生まれてきたね」と感謝したことを覚えています。親孝行をしてもらいたいなどとは一度も思ったことがありません。「子供は3才まで既に親孝行をしている」と聞いたことがあります。あんなに可愛い子どもたちを育てられたのですから、満足であります。私がこんなことを言うのは、機能不全な家庭で育ったので、一人分の価値がなかった反動からきています。私はお盆と正月が大嫌いでした。なぜなら、兄や姉の伴侶が来るので、自分の居場所がなくなるからです。自分が座る場所もなくて、寂しい思いをしたものです。家族は、その家で生まれたので、家族の一員になれるのです。勉強できる、できない、五体満足かどうか関係ないのです。でも、実際は他の兄妹を比べて、優れているとか、劣っているとか言われることでしょう。なかなか無条件で愛される子どもは少ないかもしれません。

 教会が、この世の家族と決定的に違う要素は、神さまが私たちの父であるあるということです。エペソ3:15「天と地にあるすべての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前に祈ります。」パウロに言わせると、教会という神の家族は、すべての家族の模範のような意味あいがあります。つまり、神の家族に属することで、一般的な家族の在り方が分かって来るということです。一般的な家族、つまりこの世の家族は、偶然にそこに居合わせたという考えがあるでしょう。父も母も、子どもたちも偶然、たまたまそこにいるであり、運命的なつながりを意識していないと思います。確かに血のつながりはあるでしょう。でも、骨肉の争いみたいなドロドロしたいがみ合いも生まれます。聖書において最初の殺人は兄のカインが弟のアベルを殺したことにあります。聖書のどこをみても、兄弟仲が良いというのはほとんどありません。血のつながりは重要かもしれませんが、罪によってうまくいかないということでしょう。しかし、私たちが神様を父と呼ぶとき、そこには霊的な生まれ変わりがあります。だれでも、最初から神さまを父と呼べるわけではありません。キリストを受け入れ聖霊によって生まれると神さまを「アバ父よ」と呼ぶことができるのです。神の家族には身分や民族など全く関係がありません。私たちすべては罪の中で死んでいたのですから、文句が言えません。本来、滅びに向かっていたのに、救い出されたのですから、「ああ、救われて本当に良かったね」と互いに喜び合う存在なのです。よく山や海で遭難して助かった人たちが、それ以降、家族のように親しくなるというケースが良くあるようです。私たちこそ滅びから、天国に移された運命共同体なのです。この世だけの交わりだけではなく、ずっと永遠に交わる兄弟姉妹であることを忘れないでください。

 では、どうやって私たちは互いに兄妹姉妹となったのでしょうか?エペソ2:12-14「そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し…」。私たちは救われる前は、互いに他人でした。もちろん、この世における親子や兄弟や友人関係もあります。しかし、そういう生まれつきの関係を一度壊して、キリストの血によって近い者となったのです。イエス様が福音書で言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10:37)。ですから、私たちの関係は一度、古い人に死んで、キリストによって再び結び合わされた関係と言うことができます。私たちの生まれつきの性質は「敵意」であります。家族や親子兄弟、そして周りの人々に対して「敵意」という罪が備わっています。国や人種が違ったりするともっと顕著になります。ですから、教会という神の家族は生まれつきの関係で仲良くなったのではなく、キリストの血によって敵意が打ち壊され、キリストの血によって近い者となったと言うことを理解する必要があります。

 もちろん神の教会だからと言って、だれとでも親しく交わることは不可能でしょう。なぜなら、私たちには気質があり、これまでの心の傷があるからです。教会内に自分を傷つけた人物に似た人がいるかもしれません。でも、たとえ親しくなれなくても、私たちは同じ父なる神を仰ぎ、キリストの血によって近い存在になっているということを忘れてはいけません。やがて、天国に行ったら、もやもやしたものが完全に取り除かれ、すっきりとした状態で愛し合うことができるでしょう。エペソ2:16「二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」アーメン。

2.神の家族の命令

 第二は神の家族に対する命令(戒め)について学びたいと思います。神の家族に対する命令は互いに愛し合うことです。Ⅰヨハネ4:7「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」神から生まれた者は、愛し合うことが当然であるかのように言われています。また、ガラテヤ6章には「ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう」(ガラテヤ6:10)と書かれています。善を行うことは、具体的に愛し合うことの現れです。これは、口先だけの愛ではありません。クリスチャンなったなら、愛が最も大切な戒めであることが分かるでしょう?でも、なぜ、互いに愛し合うことがそれほど重要なのでしょうか。私はこの地上できよめられ、成長するためには他の兄弟姉妹が必要だからだと思います。愛は一人では不可能です。愛は相手がいて、はじめて愛することができるのです。言い換えると、信仰生活は一人では全うできないということです。もちろん、神さまとの関係があれば、救われ、天国に行くことができます。しかし、天国に行くまで時間がある人は、神の家族である教会に属するように召されています。でも、何のためでしょうか?それは愛するという戒めを守ることによって、人格的に成長するためです。私たちが互いに成長するために、互いに愛し合うのです。別な表現では、互いに建て上げ合うということです。エペソ2:21-22「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

 第一のポイントでも言いましたが、教会に来るといろんな人がいます。父に似たような人がいます。母に似たような人がいます。生まれつきの兄や姉、弟や妹に似た人がいます。また、自分を傷つけた人に似た人がいます。自分と波長が合いそうな人もいます。しかし、父なる神様は、あえて角が立ちそうな兄弟姉妹を備えているのも事実です。牧師が最もその対象です。なぜなら、牧師は自分の父親像とぶつかる確率が大です。特に権威に対して、傷のある人は牧師に逆らいたくなります。教会に怨念晴らしがあるのはそのためです。最も多いのが姉妹方の「ちゃんとやれ!」という心の叫びでしょう。自分の父親がいい加減だったので、ちゃんとしない牧師を見るとつい裁きたくなるのです。また、牧師夫人もその対象になります。口うるさい母親に育てられた人は、牧師夫人の一言一言が気になったりします。他に、コントロールの強い人とか、弱くて依存的な人がいたり、クリスチャンだからと言って完全ではありません。どういう訳か、救われる前に未解決だった問題が、教会内でも繰り広げられることがあるのです。なぜなら、父なる神さまは、あえてそういう人を側に置いて、自我が砕かれたり、傷が癒されたりしながら成長するように神の教会にあなたを植えておられるのでしょう。もし、教会に行くと苦痛なので、教会を離れるとどうなるでしょう?その人の霊的成長はストップし、葛藤を覚えながら、天国になだれ込むことになるでしょう。救われていても、霊的に成長しないままの状態です。箴言に「人はその友によってとがれる」(箴言27:19)とあります。自分をといでくれる人が必要なのです。

 私は神学校の基礎科を卒業し、教会主事として座間キリスト教会で働くことになりました。信徒献身のような身分であり、牧師ではありませんでした。私の上司が副牧師のY先生でした。主任牧師の大川先生には全き服従であり、何の問題もありませんでした。しかし、副牧師は私と性格が正反対で、ことごとくぶつかり合いました。私は性急で、彼はのんびり屋でした。私はおおざっぱで、彼はとても細かい人でした。大川牧師には従うことができましたが、副牧師には従いたくありませんでした。それでもチラシ配りや週報の印刷、集会の準備や掃除を彼のもとで行いました。でも、心の中ではフラストレーションがたまっていました。しかし、結婚してから長男が生まれました。副牧師宅にも長女が生まれました。大川牧師が「副牧師の奥様に私の長男を預けて、京子さんが看護師として仕事を続けなさい」と言いました。私が朝8時頃、長男を副牧師宅に預け、夕方5時半ごろ迎えに行くという日課が始まりました。私は人質を取られたような感じがしました。夕方迎えに行くと、長男が泣きながら「ほふく前進」で近付いてきます。「ああ、いじめられたんだろうか」と思ったりします。そのことがあって、私は副牧師の言うことを素直に聞くことにしました。でも、それは私が砕かれて、成長するための訓練になりました。副牧師は料理が上手で、そうめんのゆで方、みそ汁の作り方などいろいろ教えてもらいました。気が付いたら、すっかり仲良くなっていたということです。私がへりくだったからです。そういう訳で、父なる神さまは、あえて気の合わない人をあなたのそばに置いて、いるのではないでしょうか?それが夫であったり、妻であったり、兄弟姉妹であったりするときもあります。どうぞ、「私をといでくれてありがとう」と言いましょう。あなたがそのレッスンを卒業するまで、続くことを覚悟しましょう。

 イエス様のところに12弟子が集まっていました。彼らはだれが一番偉いか競い合っていました。ヤコブとヨハネのお母さんは、イエス様に「自分の息子を左と右に座らせてください」とお願いしたこともありました。それを聞いた弟子たちは憤慨したと書いてあります。おそらく、同じことを考えていたのでしょう。3年半、彼らはイエス様のもとで練られたに違いありません。イエス様は彼らにこのように言われました。ヨハネ13:34,35「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」私たちが「互いに愛し合うなら」、世の人たちは「ああ、あの人たちはキリストの弟子だな」と認めるということです。残念ながら歴史を振り返りますと、キリスト教会は互いに争い、時には血で血を争う戦争までしました。どっちらが正しいかという論争にあけくれ、愛し合うことにはエネルギーを向けてこなかったということです。「互いに愛し合う」これよりも大事な戒めはないということです。また、「互いに愛し合う」ことが世の人に対して最も大きな伝道になるということです。

3.神の家族のゴール

 私たちの成長のゴールは父なる神のようになることです。マタイ5:45、48「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。…ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」これは神さまのように完全無欠になるということではなく、愛において完全になるということです。しかし、このようになるにためには神の家族である、教会が必要です。なぜなら、たった一人では、愛における成長はありえないからです。Ⅰヨハネ2章に、教会には3種類の人たちがいると書かれています。それぞれ見て行きたいと思います。

 第一は子どもたちです。少しあとで「幼子たち」とも書かれていますが、どちらも同じだと考えたいと思います。教会で「幼子たち」とはどういう人達のことを指しているのでしょうか?そうです。キリストを信じて、救われたばかりの人たちです。これは肉体的な年齢ではなく、霊的な年齢です。たとえ50歳でも、救われたばかりの人は「幼子」ということになります。幼子たちの必要は二つあります。第一は12節にありますように「イエスの名によって、罪が赦されたこと」です。人がイエス様を信じると霊的に目覚め、何が罪なのか分かるようになります。同時に、「私のような罪深い人間は、きっと赦してもらえないだろう」と思い、教会を去ってしまうということです。ですから、幼子はキリストの十字架によってすべての罪が赦されていることを知る必要があります。幼子の第二の必要は、14節「あなたがたが御父を知るようになる」ことです。ローマ8章には「あなたがたは奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって『アバ、父』と叫びます。」とあります。そうです。神さまが父であり、自分が神の子であるというアイデンティティは成長の基盤となります。良い行いやパフォーマンスではなく、信仰によって、神の子として受け入れられているのです。

 第二は若者たちです。この人は何年か教会生活を送ってきている兄弟姉妹のことです。若者の必要も2つあります。14節に「あなたがたのうちに神のことばがとどまり」とあります。これは、聖書のみことばが自分の信仰の支えとなっているということです。多くの場合、聖書のみことばよりも自分の考えや信念によって生きて行こうとします。すると、信仰がアップダウンしてしまいます。神のみことばが自我をくだき、キリスト中心に生きる重要な要素なのです。そのためには、聖書がすべて神のみことばであり、私は神のみことばに聞き従いますという服従が必要です。第二番目の若者の必要は「悪い者に打ち勝ったからです」と13節と14節に二度書かれています。ここには「悪い者に打ち勝つであろう」という仮定法に書かれていません。はっきりと「悪い者に打ち勝った」という完了形で書かれています。悪い者とは悪魔のことですが、天国に行くまでは戦いが続くことでしょう。でも、14節には「あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです」とあります。おそらく、この人は悪魔との戦い方に知っており、それは神のことばであると分かっているのです。そうです。パウロは「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」(エペソ6: 17)と言いました。もし、若者が神のことばにとどまらず、悪魔との戦いに勝利できずにいたらどうなるでしょう?教会の問題児になります。この人は牧師の言うことも、役員のいうことも聞きません。「ああでない、こうでない」と文句をたれる人になります。賜物や能力は確かにあるでしょう。でも、争いや分裂を起す要素があるので、神の栄光を現すことができないのです。この人はさんざん、問題を起こしたあと、教会を去って行きます。

 第三は父たちです。これは男性だけではなく、女性でも言える成熟したクリスチャンのことです。父というのは父なる神の心をもった人です。14節には「あなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を知るようになったからです」と書いてあります。初めからおられる方とは、父なる神のことです。私は父なる神の特徴は愛であると思います。それも、無条件の愛です。でも、無条件の愛を持つことは私たちにとっては不可能のように思えます。しかし、父なる神はあわれみ深いお方ですから、あわれみの心を持つというのはどうでしょうか?コロサイ3章にはクリスチャンが持つべき人格的な着物が書かれています。一番下に着る、つまり肌に近い着物は「深い慈愛の心」(コロサイ3:12)となっています。しかし、口語訳と共同訳は「あわれみの心」となっています。そうです。父なる神に似ている人は、「あわれみの心」を持っている人ではないかと思います。あの放蕩息子が家に帰って来たとき、「父親は彼を見つけて、かわいそうに思い」(ルカ15:20)とあります。しかし、口語訳と共同訳は「あわれに思い」であります。

私は4人の子供を育てましたが、大変ありがたいと思います。なぜなら、「あわれみの心」を身につけさせていただいたからです。私は8人兄弟の7番目だったので、あまり愛を受けませんでした。学校でも先生たちから一番叱られました。自分で言うのもなんですが「あわれみの心」とほとんど出会ったことがありません。しかし、教会に来てから牧師や長老、先輩方の中にあわれみの心があることを知るようになりました。そして、4人の子育てによって、私の心が癒され、「あわれみの心」を持てるようになったのだと思います。「あわれみの心」の反対が、「何やってんだよ!」と裁く心です。若者たち、あるいは放蕩息子の兄は、「何やってんだよ!」と裁く心を持っています。そうすると、救われたばかりの幼子たちは傷ついて、躓いてしまうでしょう。教会が平安な場所であるかどうかは、父の心を持った兄弟姉妹が多くいることです。この人たちが、あわれみの心をもって幼子たちを育てていくのです。また、この人たちが若者たちに、「そうではなく、こうですよ」と模範を示しながら、教えていくのです。そうすると幼子が若者に成長し、若者が父になります。父の数が増えると、神さまは安心して、救われてほしい魂を大勢、送って下さるに違いありません。互いにさばきあっている教会に、神さまは魂を任せてはくださらないでしょう。イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」と言われました。愛を受け、愛を与える者になりたいと思います。最後に、教会の兄弟姉妹は天国に行くまで、みんな「工事中」であることを覚えたいと思います。