2026.6.21「使徒と預言者 エペソ2:20-22」

 きょうは「使徒と預言者が今日でも存在するのか?」ということを共に考えたいと思います。結論的に言いますと、使徒と預言者がいなければ教会はなりたたないということです。でも、ほとんどの教会は「聖書が完成してから、そういうものはなくなった」という考え方が主流なので、物議をかもしそうな話題でもあります。でも、あえてこのことについてお話したいと思います。みなさんは余計な神学が入っていないので、話しやすいかもしれません。

1.使徒と預言者

 エペソ2:20「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」このみことばを私はこのように解釈していました。聖書は使徒や預言者が書いたものがまとめられたものです。イエス様ご自身が何かを書いて残したことはありません。ヨハネ8章で地面に何かを書いたことがあるようですが、何なのかわかりません。弟子たちがイエス様の教えを書き留め、また何をなかったかも記録しました。教会の要の石はイエス様ご自身であり、その上の土台は使徒や預言者です。さらにその上に神殿である私たち教会が立っているということになります。ですから、使徒や預言者が言ったこと、書いたことが、キリスト教の教えになっているこということでしょう。そういう意味では、当亀有教会も使徒や預言者が書いた聖書の上に立っていると思います。そのように『亀有教会の理念』に書いてあります。しかし、きょう申し上げたいのは、「使徒や預言者が今日も存在するのか?」ということです。もし、聖書が完成した今は、使徒や預言者が不要であると考えるなら、教会が主の宮あるいは、神の御住まいとして完成しているということになります。しかし、さっき読んだ箇所は、「これからなる」という進行形であり、「なった」とは書かれていません。これから教会が神の宮として完成するためには、使徒や預言者が必要ではないかと考えるのが妥当ではないでしょうか?

 次に、エペソ4章11~13節をお読み致します。「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」このところに、5人の指導者が並べられています。これらの人は「キリストの賜物」と呼ばれ、復活昇天したキリストが教会を建て上げるために召した人たちです。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師と5人いますので、五職とか、五役者と呼ばれています。多くの保守的な教会は、伝道者、牧師、教師の存在は認めます。しかし、使徒、預言者は聖書が完成したので、もういない、もう不要であるというのです。でも、聖書が霊感されていると言う保守的な教会に申し上げます。エペソ4章に書かれている内容「キリストのからだが建て上げられているのでしょうか?」、「成熟した大人、キリストの満ち満ちた身丈にまで達したのでしょうか?」おそらく、エペソ2章と同じようにまだ、未完成であり、その途中なのではないでしょうか?キリストのからだが建て上げられるために、つまり、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するためには、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師の五職が必要であると考えるのが妥当ではないでしょうか?逆に、現代の教会は伝道者、牧師、教師だけで行おうとしているので、うまくいかないのではないでしょうか?そうです。使徒と預言者が不在なので、キリストのからだなる教会が健全に建て上げられていないのです。偉そうなことを言っていますが、ここ10年、20年くらい前からこういう声が出ているということです。

 ビル・ハモンという人が『聖徒の日』という本でこのように述べています。初代教会のころは、5人の教役者たちがいたけれど、313年キリスト教がローマ国教になってから、いなくなりました。しかし、1517年ルターの宗教改革があり「牧師」が復活しました。18世紀、ジョン・ウェスレーが活躍してリバイバルが起こり「伝道者」が回復しました。20世紀になってたくさんの神学者が出て来て「教師」が回復しました。」さらに、ビル・ハモンは1980年に預言者が回復したと言っています。「後の雨運動」が有名です。しかし、このころ個人預言で傷ついた人たちがたくさん出ました。彼らは「神はこう言われる」と言うのですから、旧約聖書の預言者の怖いイメージがありました。預言や預言者に対する否定的な考えは現在まで続いています。さらに、1990年に使徒が回復したと言っています。ビル・ハモンやピーター・ワグナーが「使徒的教会とそのネットワーク」を提唱しはじめました。ピーター・ワグナーは「新使徒改革」と呼び、宗教改革以来、根本的な変化を経験していると言いました。それから多くの人たちが使徒職に関する書物を出版し、今日に至っています。私はアメリカのベテル教会のビルジョンソン師は使徒だと思います。また、クリスバロトン師は預言者だと思います。私はベテル教会の本だけではなく、多くの人たちの本を読んだので、「使徒と預言者」についてメッセージするしかないと強く迫られました。

 日本の教会は今言ったような「使徒と預言者」の考えは7割以上が認めないでしょう。日本の主流の教会は教団が支配しています。現在、存在している教団は過去のリバイバルで誕生しました。ルター、カルバン、ジョン・ウェスレー、福音派のリバイバル、ペンテコステのリバイバル等から生まれました。しかし、リバイバルの火が消えると、教義を守るために教師と管理の賜物の人たちが立ち上がります。改革者やリバイバリストは使徒、預言者、伝道者です。その人たちが消えたあと、教団を維持するために働いているだけです。現在、伝道者はいないわけではありませんが、牧師と教師が教会を運営しています。残念ですが、牧師と教師だけではうまくいきません。全世界に関する、神からの設計図を持っているのは使徒であり、預言者だからです。イエス様は「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられました。牧師は人々の魂を救い、育てることはします。しかし、視野が狭いので、国を弟子とするところまではいかないのです。教師も同じで聖書の釈義はできても、今、どのように聖霊が働いているのかは預言者でないと分かりません。教会がこれから前進し、教会が建て上げられるためには、使徒と預言者の存在が欠かせないのです。

2.預言者は何をするのか

 私たちは預言者と言えば、モーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤ等を連想するかもしれません。彼らは「主はこう言われる」と前置きをしてから、民に語りました。なぜでしょう?旧約時代、神さまは預言者を通してでなければ語らなかったからです。そして、聖霊が人々の中におられなかったので、神さまの代弁者がいなければならなかったのです。人々は神さまが何とおっしゃっているのか、預言者のところに行かなければなりませんでした。預言者は主の前に出て、語られることばを待ちました。偽預言者は主が語っていないことを語ったため命を落としました。ですから、まことの預言者は100発、100中の正確さが求められました。旧約の預言者の最後が、バプテスマのヨハネです。彼はエリヤの再来と言われ、火の吹くような厳しい預言をしました。でも、バプテスマのヨハネは預言者の最後です。しいて言うなら、最後の預言者はイエス・キリストです。でも、ペンテコステ以来、聖霊が人々の中に住むようになりました。聖霊が人々の中に語られるようになったので、旧約聖書のような預言者の務めは終了しました。キリストが罪を贖って下さったので、罪を告発するメッセージではなく、和解をもたらすものに代わりました。ヘブル8章がそのことを告げています。ヘブル8:10-12「…わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

では、新約の預言者とは何者であり、何をするのでしょうか?エペソ4章には「キリストの賜物であり、キリストご自身が、5人の者たちをお立てになった」と書かれています。預言者はキリストの賜物であり、キリストがご自身の教会を建て上げるために召したのです。一方、預言の賜物は、聖霊の賜物の1つであり、Ⅰコリント14章に詳しく書かれています。Ⅰコリント14:3「しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。」預言の賜物は、人を育て、勧め、慰めを与える、そのような役割があります。しかし、この預言は旧約聖書の預言者たちの預言ではないので、100%正確でなくても良いのです。そして、預言の賜物は他のどの賜物よりも熟練と人格性が求められます。なぜなら、自分の思いや偏見が加わり、濁った預言をする可能性が出てくるからです。預言者にも言えることですが、人の弱点や欠点を言うことはだれでもできます。おそらく、その人自身も、言われなくても知っているでしょう。そうではなく、本当の預言は泥の中に隠されている金を探し当てることなのです。人々に知られていない、神の計画や運命を伝えてあげることなのです。おそらく、その人は神さまと交わりながら薄々気づいていたかもしれません。でも、語られた預言によって、確認が与えられ、いよいよ神からのものだと知るのです。その人の中にある聖霊が既に語っていたけれど、本人がそれを打ち消していたのです。しかし、預言が語られることにより、霧が晴れるように神様のみ旨が分かったのです。

では、新約聖書の預言者とはどのようなことをするのでしょうか?ところで、エペソ4章11節の五役者を五本の指で説明しているのを見たことがあります。親指は使徒です。親指は4本の指すべてに触れ、奉仕をすることができます。使徒パウロは預言者でもあり、伝道者でもり、牧師でもあり、教師でもあり万能でした。使徒職のことは次のポイントでお話します。人差し指が預言者です。人差し指は物や方向を指し示すときに使います。預言者は、啓示と油注ぎのミニストリーを持ち、キリストのからだのために道を指し示します。人差し指は、親指と最も近い関係にあります。預言者と使徒は、キリストのからだに対する手の働きにおいて、最も緊密な協力関係にあるのです。ちなみに使徒パウロは預言者のシラスとコンビを組んでいました。中指は伝道者です。中指は、手の中で最も長く、遠くまで伸びています。それは、世界の伝道のために拡張されたミニストリーです。手のすべての活動の真ん中にあります。伝道者は手の働きの重要な部分です。薬指は牧師です。結婚指輪をはめる指です。牧師は聖徒と結婚しているのです。彼は1日24時間、聖徒たちと共にいます。預言者や伝道者が来ては去っていきますが、牧師は羊飼いの関係という指輪で地域の聖徒と結ばれています。小指は教師です。小指は最も小さい指ですが、手のバランスをとる役割をしています。神の言葉を一行一行、一訓戒一訓戒で教えることは、教会で切実に必要とされています。教師は、キリストの教会に対する手の働きの重要な器官です。

ベテル教会の預言者クリスバロトンは『預言と預言者』という本でこのように述べています。「預言者の職とは、指示し、正し、警告し、治め、装備するためです。預言者の職は召命です。この召命は、生まれたときからある場合もあれば、後に新生したときに受ける場合もあります。私のように、キリストを受け入れてから何年も経たないと、この召命を受け取らないこともあります。預言者としての人生における力強い動きを理解することは重要です。それは単に私たちの神学やミニストリーのためだけでなく、より重要なのは、それが私たち個人に影響を与えるということです。預言者としての召命を受けて成長した人は、自分が変だ、奇妙だ、現実から外れていると感じることが少なくありません。預言者が多次元的に見たり聞いたり「感じたり」するという単純な事実だけで、頭がおかしくなったように感じることがあるのです。特に、周りの重要な人々がこのダイナミズムを理解せず、預言者の視点に価値を見出さない場合、そうなるのです。」

1995年ハックご夫妻が当教会で預言して下さったことがあります。集まっていた20人の牧師たちが彼を本当に預言者だと思いました。ネイティブアメリカンのメルボンド師が来られたこともあります。彼も油注がれた預言者であり、癒しだけではなく、将来のことも示してくださいました。また、新松戸教会の津村牧師も預言者だったと思います。聖霊刷新の祈祷会で悪霊追い出しをしてくださいました。自称預言者もいますので注意しなければなりません。教会が分裂してしまうからです。でも、複数の教会で認められている確かな預言者もおられます。その人たちは個人や教会の方向を示してくださいます。また、按手によって聖霊の油注ぎを与えてくだいます。聖霊の賜物が開かれる場合が多々あります。預言者は教会を建て上げるためにとても重要です。

3.使徒は何をするのか

 イエス様は弟子たちの中から、12人を選び、彼らに使徒という名をお与えになりました(ルカ6:13)。使徒はギリシャ語でアポストロスであり、「派遣された者、使者、司令官」という意味です。ルカ9:1-2「イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。」イエス様はご自分の働きを継続、拡大するために12使徒を選ばれました。やがて、彼らはイエスさまの十字架と復活の証人となり、全世界に福音を宣べ伝えるように召されました。イスカリオテ・ユダが自殺したので、代わりにマッティアが任命されました。厳密にはこの12使徒がまことの使徒なのであります。しかし、新約聖書にはパウロやバルナバ、他に数名の使徒がいたことがわかります。保守的なキリスト教会は「これらの使徒たちが天に召された後は、存在しないんだ」と主張します。癒しや奇跡もそうですが、聖書が正典として完結してから、使徒たちは不要になったと言うのです。しかし、それはディスペンセーション主義から来たものであり、現実よりも神学を優先した考え方であります。本当に聖書をそのまま読むならば、キリストが再臨なさるまで、つまり教会が完成するまで使徒たちは存在するというのが真実です。それらの使徒たちはキリストがご自身の教会を建て上げるためになくてはならないキリストの賜物(エペソ4:7)ということができます。

 もう一か所、このことを支持するみことばがあります。Ⅰコリント12章は御霊の賜物が列挙されている箇所として有名です。知恵のことば、知識のことば、信仰、癒やし、奇跡、預言、霊の識別、異言、異言の解き明かしがありました。12章の最後にこのように書かれています。Ⅰコリント12:28-29「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。」御霊の賜物ではなく、神さまが備えてくださった特定の人物が列挙されています。注目すべきなのは「第一に使徒たち、第二に預言者たち」という表現です。「第一」はギリシャ語でプロートスですが、「多数の中の第一の、最初の」という意味です。これは「何よりもこれが第一に来なければならないという」強い意味があります。「第一に使徒たち、第二に預言者たち」とありますので、使徒が最も重要だということです。その後に、預言者、教師、力あるわざ、癒し、援助、管理、異言と続きます。教団を支えている「管理」は7番目です。ある人たちは「使徒はいない」と言いますが、12章29節は「皆が使徒でしょうか」と書いてありますので、使徒もいるけど、そうでない人もいるということがわかります。何度も言いますが、御霊の賜物と同じように、使徒や預言者はキリストのからだの器官であり、世の終わりまで用いられなければならないということです。もし、第一の使徒たち、第二の預言者たちをないがしろにしたならば、健全な教会は成り立たないばかりか、神さまの役目もできないということになります。

では、使徒は何をするシトなのでしょうか?『今日における聖徒』を書いたビル・ハモンはこう述べています。「使徒は親指にたとえられます。親指は4本の指すべてに触れ、奉仕することができます。手の機能として、時には平らになり、すべての指が横並びになることがあります。何かを掴むとき、親指は対象物の片側に回り、指は反対側から包みます。この反対方向から来るという動きが、手に力を与えるのです。親指は、指と対立したり、指の上に乗ったりするのではなく、手を完全に機能させ、力を発揮させるためにデザインされているのです。五役者の神の手は、その強力な目的において、大きく制限されてきました。4本の指だけで機能しなければならなかったのです。親指がないため、そのパワーと機能は大きく制限されています。今や神の手のすべての要素が完全に回復されつつあるので、神の手は完全なパワーとデモンストレーションで拡張されるでしょう。」ビル・ハモン氏は1990年代から、使徒運動が起こり、使徒が回復してきたと言います。

 ピーター・ワグナーは「使徒と預言者が協力することが最も重要である」と言っています。前のポントでも申し上げましたが、預言や預言者によって教会が大変、傷つけられたことがありました。「そんなものはいらない」と「たらいの水と一緒に赤ん坊までも捨ててしまった」のです。その後、「預言や預言者が言いっぱなしで、責任を取らないというのはおかしいのではないか」という意見がでました。彼らが「主がこう言われる」と言ったら、私たちは黙るしかありません。でも、それに対して「否」と言えるのが使徒であります。使徒の働き21章にありますが、伝道者ピリポの家にパウロが滞在したことがあります。そこに預言をする4人の娘がいました。あとからアガボという預言者が来て、「パウロの帯を取り、エルサレムでこのように縛られる」と預言しました。彼らはパウロに「エルサレムには上っていかないように」と懇願しました。私だったらやめるのですが、パウロは「主イエスのためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています」と、預言よりも自分の意思を通しました。なぜでしょう?パウロが使徒だったからです。使徒は預言者を制したり、正しく解釈することができるのだと思います。ピーター・ワグナーは「二頭立ての馬車」をたとえにして、使徒と預言者が手を取り合えば、世界を変えることができるのですと言っています。

 イエス様がマタイ28章で「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とお命じになられました。イエス様は国レベルの弟子作りをおっしゃっています。牧師は教会内のことしか考えません。しかし、使徒は世界中の教会のこと、そしてビジネスや政治、教育や芸術のことまで視野に入れて国を変革しようとします。ですから、地方教会の牧師たちは、使徒や預言者の支持を仰ぎつつ「御国がこの地に来るように」前進して行くべきです。本日の適用です。キリストは教会に五種類の信徒たちを与えておられます。使徒的な人(日本、教会全体を考える人)、預言者的(善悪を判断し、神の声を聴く人)、伝道者的(魂の救い、伝道する人)、牧師的(人々の世話をし育てる人)、教師的(聖書を学ぶ、教える人)自分に与えられた賜物と召命を果たすように。