礼拝説教で、献金の勧めをすることは滅多にありません。なぜなら、献金によって躓く人がいるからです。私もかつて躓いた一人なので、献金の意味を知らせた方が良いと思いました。また、「どうして私は貧しいのでしょう?いつもお金が足りないのです」という人がいるかもしれません。貧しくならないで、豊かな生活をする秘訣は聖書に書かれています。その基本が、マラキ3章に記されている十分の一献金です。昔、韓国の教会の牧師たちから、「日本人の牧師は十分の一献金を説かないので、信徒を貧しくさせている」と言われたことがあります。そういう意味でも、きょうは正攻法で「十分の一献金」の必要性をお話したいと思います。
1.十分の一献金は律法か?
「十分の一献金は律法か?」という問いがあります。はっきり言って、律法です。「旧約聖書の律法だったら、私たちは守らなくても良いのではないですか?」とい意見もあります。確かに私たちは新約の時代に住んでいますので、「これを守らなければ神に近づけない」ということではありません。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって罪赦され、神さまに受け入れられています。救われるためには行いは必要でありません。だから、献金も必要ないのです。神さまは全宇宙を造られたお方なので、私たちのお金がなければやっていけない貧しいお方ではありません。しかし、献金は私たちの神様に対する感謝であり、献身のしるしでもあります。貨幣制度のない時代は、地からとれた穀物や、産物をささげました。創世記4章によると、カインは大地の実りを、アベルは羊をささげました。ノアは洪水の後、祭壇を築いて、きよい動物をささげました。このように人間が創造された直後に神さまにささげものをしたという、事実があります。なぜなら、すべてのものは神さまが造られ、それを私たちに与えられたからです。「感謝しろ」とは言われていませんが、創造主に対して、「ありがとうございます」ととれたものの中から、感謝するというのは道理のようです。日本人は創造主を信じていないので、神さまに何かを願う代わりにささげる「交換条件」みたいな意味合いがあります。聖書は、私たちがすべての資源や労働力が、神さまから既に与えられているので、そのことを感謝するのだと教えています。
十分の一献金にもどりますが、最も古いのはアブラハムがメルキゼデクにささげたことが、創世記14章に記されています。アブラハムが持っていた財産がその土地の王様たちに奪われてしまいました。アブラハムとそのしもべたちが戦って、すべての財産を取り戻しました。すると、メルキゼデクがパンとぶどう酒をもって、アブラハムを祝福しました。彼は祭司だったのです。アブラハムはすべての十分の一を彼に与えたと書かれています。おそらく、このことが十分の一献金の最初であり、イスラエルの民はアブラハムに倣って実行したのだと思います。レビ記には、いろんな奉納物が記されています。神さまに近づくためには、手ぶらではなく、何かを携えてくるというのが当たり前になっています。しかし、イエス・キリストが究極のささげものになったので、神に近づくためには何も必要でなくなりました。ヘブル13章には「私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげようではありませんか」と書かれています。そうです。私たちの賛美が、何よりもすばらしい神さまへのささげものなのです。では、神さまは私たちにほめられたいのでしょうか?人間からそのように高められなければ、満足できない、どこかの国の卑しい王様なのでしょうか?そうではありません。マタイ6:33「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」というすばらしいみことばがあります。私たちはお金が最も大切だと思ってしまいます。神の国と神の義よりも、お金を第一に求めてしまうかもしれません。ルカ16章にはお金が「マモン」と言われ、人間をまどわす人格的なものにたとえられています。お金は中立ですが、マモンという偶像になって神さまよりも、お金を頼ってしまうのです。それは、誘惑です。十分の一献金は、「私の神はお金ではありません。神さま、あなたに頼ります」ということの証明なのです。それだけお金は、神さまから私たちを引き離す力があるのです。どんなに世の中が複雑になっても、必要を与えるのは、神さまなのだということを信じていくことが祝福の道と言えます。
新約聖書でイエス様は十分の一献金のことを是認しておられます。マタイ23:23「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」このところで、イエス様は正義とあわれみと誠実を行うことを勧めておられます。しかし、「十分の一もおろそかにしてはいけない」ともおっしゃっています。最初にお読みしたマラキ書3章は「旧約聖書」です。そして、律法であることは間違いありません。ですから、「これを守らなければ祝福を受けないのだ」と律法主義として理解するのは間違いです。献金は祝福を得るための交換条件ではありません。パウロはⅡコリント9章で「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださるのです」とあります。すべての献金がそうですが、いやいやながら、仕方なくささげるものを神さまが喜ばれるはずがありません。何度も言いますが、神さまは私たちの献金がなければ暮らしていけない貧しいお方ではありません。献金で、躓くくらいなら、ささげない方がずっと良いのです。
ピーター・ワグナーは『偉大な富の大移動』の本でこのように述べています。「十分の一献金は律法主義の一例なのでしょうか?そうですね、そうだと思います。しかし、それは聖なるものであり、常識的な合法主義です。道路の右側通行や所得税の支払い、シートベルトの着用と同じで、すべて良い形の律法主義なのです。私の考えでは、十分の一に反対する人の中には、収入の10%を献金している人はほとんどいないのではないでしょうか?数年前、ジョージ・バーナーという研究者が、クリスチャンで十分の一をささげている人はわずか9%であることを発見しました。つまり、91%の人が十分の一をささげていなかったことになります。世界を変えるのが難しいのは当然です。」励ましか、ため息か、分からない結論になりました。
2.十分の一献金に対するチャレンジ
第二は、マラキ書は何と言っているのか、このところから中心に学びたいと思います。有名な話ですが、「聖書で、神さまを試してはならない」と言われていますが、唯一、ここだけ、神さまを試して良いと書かれています。マラキ3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の【主】は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。」さきほど、「十分の一に反対する人の中には、収入の10%を献金している人はほとんどいないのでは」と申し上げました。簡単に言うと、「十分の一を実際に、ささげてみたら、あふれるばかりの祝福をいただいたので、継続しないわけにはいかない」ということでしょう。昔、中国セルの通訳をしてくれた本嶋姉妹がいました。彼女は長い間、台湾に住んでおり、両親もクリスチャンでした。本嶋姉妹は「十分の一献金をささげると必ず祝福を受けます」と自信たっぷりにおっしゃっていました。牧師が言うと、いやらしくなりますが、実際、ささげている人が講壇に立って、証しすると効果があるかもしれません。はっきり申し上げます。いつもお金が足りなくて悩んでいる人は、十分の一献金をささげてみて下さい。半年くらい続けた後、私に報告してください。マラキ書は「万軍の【主】は言われる。わたしがあなたがたのために天の窓を開く」と豪語しています。聖書は天には窓があると言われています。イエス様が洗礼を受けた時、「天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降りてこられた」(マタイ3:16)と書かれています。聖書の人たちは、天はドームのような天蓋があって、開閉可能なようです。当亀有教会は私が設計しましたが、献金台の真上に天窓があります。光が強すぎてシートをかぶせることもありますが、天の窓が開かれているイメージがあります。
マラキ書はとても厳しいことを言っています。マラキ3:8-9「人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。・・・あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。」簡単に言いますと、十分の一は神さまのものであり、それを自分のために使うのは「神のものを盗んでいる」ということなのです。逆に言うと、「十分の九は自由に使っても良いけど、十分の一は神さまのものだよ」ということです。では、その十分の一を神さまはどのように使うのでしょうか?民数記18章には、十分の一は主への奉納物であり、祭司アロンとレビ人の分でありました。神に仕える人たちの食物となったということです。キリスト教会では、牧師がレビ人にあたりますが、神さまにささげた献金の中から与えられるようになっています。直接、牧師に渡すと人々から雇われている感じがしますが、神さま経由で来ますので、神さまに雇われているのです。コリントの教会に対してパウロは「あなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか」(Ⅰコリント9:11)と言っています。牧師は霊の食物を与えて、いるということです。でも、メッセージに栄養がなければ、ささげる気持ちも薄らぐかもしれません。実際、韓国のソウルは教会がひしめきあっています。1週でもメッセージが恵まれないと、他の教会に行くそうです。彼らの言い分は「羊は良い草を求めて移動する」ということです。牧師の立場から言うと、「牧師に良い物を与えるなら、良い乳を出しますよ」ということでしょうか?献金の主題から少し逸れてしまいました。
もし、十分の一献金をささげるならどうなるでしょうか?天の窓が開かれるだけではありません。マラキ3:11「わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の【主】は言われる」。かなり前に、インドネシアのエディ・レオ師からこのことを学んだことがあります。食い荒らすものというのは、野の動物です。日本でも被害がありますが、鹿やいのししが、畑を食い荒らすようです。もし、頑丈な柵、つまり囲いを畑の周りに作るなら、動物が侵入して食い荒らすことはできません。つまり、十分の一献金をした人に対して、神さまがあなたの畑に柵を設けてくださるということです。そうすれば、泥棒とか、病気、事故、思わぬ出費から守られるということです。十分の一献金は、あなたの経済を守る、柵のようなものです。
ロバート・ヘンダーソンの『天の法廷から富を引き出す』という本にこのようなことが書かれていました。「第三世界のある国で、アメリカ人の伝道者が宣教していました。そこは砂漠地帯で、貧しい人々が多く住んでいました。集会を開くと、癒しや解放が起こり、人々はバプテスマを受けて、キリストと共に歩むことを宣言しました。水がないので、砂漠に穴を掘ってビニールを張り、そこに水を張ったものが洗礼槽です。ある朝のセッションで、ホストリーダーの二歳の息子が、世話をしてくれる人から離れてしまい、水の入った洗礼槽に落ちて溺れてしまいました。発見されるまではしばらく時間がかかり、彼の体は水の中で膨らみはじめていました。ホストリーダーは、溺れた息子を連れて、敷地内にあった小屋に逃げ込みました。人々は皆、この小屋の周りに集まり、壁の隙間から小屋の中を覗き込み始めました。リーダーはベッドの上に座り、前後に揺れながら、死んだ息子の体を抱きしめていました。そのアメリカ人伝道者も、小屋の隙間から覗いていましたが、スペイン語で「でも、神さま、私は十分の一献金者です。しかし、神よ、私は一献金者です」と叫んでいることが分かりました。この男が叫んでいると、突然、神の栄光がその小屋に入ってきました。死んで溺れていた少年は、咳や痰を出し始め、蘇生しました。彼の体は、元通りに縮み始めました。彼は完全に癒され、死からよみがえりました。この奇跡が起こったのは、このリーダーが十分の一を通してイエスの世界とつながっていたからです。このしるしと不思議を起すことができたのは、この人の十分の一の証でした。」アーメン。
このように十分の一献金は、主の法廷の前で証言する根拠となります。こうしてわたしを試してみよ。万軍の【主】は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか、試してみよ。
3.他の献金
教会でささげるのは主に十分の一献金です。これが、教会の収入の予算になるわけです。しかし、他の献金もあります。ところで、毎週、回って来る集会献金があります。これは習慣的に行っているものであり、十分の一献金をしているならパスして良いのです。ですから、教会によっては袋を回さないところがあります。献金用の箱だけを、入口に設置しているだけです。そういう教会から来られた方は、献金袋が回るとき違和感があるかもしれません。当教会は、箱を用意していませんので、礼拝の最後の部分で献金袋を回すわけです。私がアメリカの教会に行ったときは、シルバーのお皿を回していました。コインやドル札が丸見えであります。彼らは神さまの前に出るときは、何かをささげなければならないという習慣があるからです。日本の教会も西洋まわりでやってきたので、同じようなところがあります。特別伝道集会をしたとき、集会献金をやめようかという思ったこともあります。なぜなら、未信者を対象とした集会だからです。でも、高砂の手束先生は「いや、日本人は神さまの前に出るとき、お賽銭をする習慣がある。ささげることによってご利益を得ると考えているので、やめない方が良い」とおっしゃっていました。「そうだなー」と思いました。でも、献金はお賽銭と違います。祝福を得るために献げるのではなく、すでに祝福を得ているので献げるのです。アメリカでは、十分の一献金をささげている人は全体の9%であると前のポイントで申し上げました。そして、十分の一献金をささげると、神さまが囲いを設けてくださり、野生動物から作物を守ってくださるとメッセージしました。みなさんが十分の一献金をささげているか、ささげていないか私は知りません。知りませんが、十分の一献金をささげていて、神さまが囲いを作ってくださったという前提でメッセージを進めさせていただきます。第三のポイントはその他の献金です。その他というのは、十分の一献金以外の献金です。
Ⅱコリント9:5-6「そこで私は、兄弟たちに頼んで先にそちらに行ってもらい、あなたがたが以前に約束していた祝福の贈り物を、あらかじめ用意しておいてもらうことが必要だと思いました。惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらうためです。私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。」この献金は、宣教のための献金です。パウロは宣教のため、いろんなところを旅しました。新たに教会を設立すると、また別の場所に行きました。経済的に困っている教会にも献金を届けました。使徒の働きをみますと、パウロはエルサレム教会に献金を運んでいます。このような献金をパウロは「祝福の贈り物」と言っています。私たちが「神さまの御用のためにお使いください」と言うのは、宣教のために使う献金のことを言うのです。他に教会では、会堂献金や設備改修献金、上半期感謝献金、クリスマス献金、神学校や宣教団体の献金があります。これらが、十分の一献金以外、その他の献金になります。でも、それらの献金は神の国の拡大のための投資の献金と言えます。パウロは「わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます」と言いました。さきほど、「神さまが囲いを作ってくださった」と申し上げました。柵に囲まれた農地をイメージしてください。あなたの畑には余裕があるので、種をまいて育てることができます。畑をそのままにしておく農夫はいません。小麦、じゃがいも、ピーナッツ、とうもろこし、大豆を植えることができます。秋田の家には田んぼが3.5ヘクタールありました。家族で食べて、少し農協に出せる分です。しかし、母はかしこくて荒地を開墾して畑を作っていました。小さな畑が3か所ありました。そこにいろんな作物を植えていました。あるときスイカを植えましたが、食べ頃になると盗まれてがっかりして、やめました。さやえんどう、きゅうりやトマトは大丈夫でした。そうです。あなたの畑にはまだじゃっかん余裕があります。だから、そこに種を蒔いて、作物を育て、収穫することができます。その他の献金というのは、種を蒔いて、収穫を得ることができる、豊かな報いを受ける献金です。つまり、その他の献金は祝福を期待して良いのです。種まきのたとえでは、100倍、60倍、30倍の収穫があると言われています。
パウロはこのようにまとめています。Ⅱコリント9:10「種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」これと似ているみことば、ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」私の家では父の収入が少なくて、母が大変苦労していました。長女や長男が仕送りして下の兄妹の学費を工面してくれました。家では「食べていけるか」が大きなテーマでした。そのため、私の人生は「生き延びる人生」でした。25歳でクリスチャンになりましたが、洗礼を受けた日に、お祝いの記念誌とともに、月定献金と会堂献金の二つが入っていました。「なーんだ、教会もこの世の宗教と同じか。会費を取るんだな」と躓いてしまいました。礼拝から帰って、ビールを飲んでふてくされて畳の上で寝ました。すると足元から津波が襲ってきました。同時に雷の轟きのような叫び声が聞こえてきました。体全体が震え、畳の上に平伏しました。そのとき、神さまをなめてはいけないと思いました。次の日、会社の先輩から献金の意味を教えていただきました。でも、後から気づいたのですが、私には「貧困の霊」があることに気づきました。「献金したら、自分のお金が少なくなるじゃないか。一体、お金はどこからやってくるのか、自分が働くからではないか」と生まれ育った環境から来た考えでした。詩篇23篇「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」とありました。また、マタイ6章には「空の鳥を見なさい。…天の父は養っていてくださる」とありました。だんだん恵み深い神さまのことが分かり、「貧困の霊」から解放されていきました。やがて父の心が与えられ、与えることが喜びになりました。献金もそうですが、今までは、与えることができませんでした。でも、不思議です。「私は献金できるという」喜びが与えられました。もちろん、献げる量は少ないと思っています。私には与える賜物がないと自覚しています。でも、みなさん、献金はしたらわかります。変な言い方ですが、ささげてみると、「ああ、神さまは恵み深いお方だなー」と分かるのです。ささげる喜びは、父なる神さまの喜びだからです。