現代は教会に通わないでインターネットで済ませている人たちがたくさんいます。果たしてそれで礼拝ができるのでしょうか、正しい教えを保つことができるのか心配です。また、教団に属する多くの教会は、教団と教会を守るために頑張っていますが、とても閉鎖的です。また、伝統的な教会は「教会内のことが奉仕であり、仕事は世俗的なもの」と考えています。牧師は教会あっての牧師なのですが、教会は必要だと思いますが、どうして教会が必要なのかクールな目で聖書から学びたいと思います。
1.教会とは?
教会とは何でしょう?福音書には「教会」という用語はたった二回しか出てきません。マタイ16:18「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」もう一か所はマタイ18:17「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」イエス様が弟子たちと共に地上におられた頃、「教会」があったのかというと、なかったというのが正しいでしょう?しかし、なぜマタイによる福音書では2回も「教会」という用語を使ったのでしょうか?聖書学者は「マタイによる福音書が書かれたのは紀元後80年くらいで、そのときは教会が存在していたので、読者が分かるようにその用語を使ったのでしょう」と言うでしょう。私は、イエス様は私たちが言う「教会」ではなく、ギリシャ語の「エクレーシア」という言葉を用いたのではないかと思います。では、「教会とエクレーシアが違うのか?」というと本当は違うのです。church「教会」は組織とか制度を表すドイツ語の「キルヘ」から来ています。しかし、本来、「エクレーシア」は「召し集められた神の民」という意味です。教団に「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド」がありますが、最も元来の意味に近いのではないかと思います。なぜ、そんなことを言うかというと、旧約聖書ではイスラエルが神の民でした。しかし、新約聖書ではキリストによって贖われた人たちが、神の民と呼ばれるようになったのです。
その根拠が使徒20章28節「あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」「神がご自分の血をもって買い取られた」とは、ものすごい表現です。父と子は一体ですから、そういうことだと思います。しかし、詳しくは「ご自分の御子の血をもって買い取られた」ということなのでしょう。そして、「神の教会」とは、神が所有する、神ものという意味です。一見、教会は人間の集団、人間の組織や制度のように思いますが、神様のものなのです。だから、イエス様は「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と言われたのです。教会の歴史をたどりますと、紀元後313年、コンスタンティヌスによってキリスト教がローマの国教になりました。だんだん初代教会から変質したものになり、教会が組織化され、制度化されました。聖職者の教会になり、信徒は教会の外に追い出されました。1517年マルチンルターによる宗教改革がなされ、万人祭司制が復活しました。しかし、イギリスやドイツなどで、キリスト教会が国教になりローマ・カトリックに逆戻りしたようになりました。そこで、国の支配を受けない、自由教会が生まれるようになりました。アメリカにおいて自由教会が栄え、現在は自由教会の方がはるかに多いです。しかし、その弊害も出ました。国教会においては、国が教会に土地を与え、聖職者の給与を出し、税金によって教会を運営することができました。ところが、自由教会は全部、自分たちで賄わなければなりません。そのお金は一体、どこから来るのでしょう?そうです。信者の献金です。マラキ書が言う十分の一献金によって、伝道活動、建物、教職の給与を賄うようになったのです。でも、自由教会の弊害って何でしょう?簡単に言うと、自分たちが教会を建てるということです。献金もそうですが、奉仕活動すべて自分たちで行うということです。はっきり言って、組合のような教会があります。
自主独立でとても響きが良いかもしれません。しかし、本末転倒なところもあります。献金を教会の運営のため献げるなら、会費と同じになります。献金は感謝と献身のしるしとして、神さまに献げるのです。そうすると、神さまがそれを祝福して、キリストのからだである教会のために用いるようにお返しくださるのです。奉仕はどうでしょう?組合的な教会はたくさんの委員会によって奉仕分担をしています。悪くはありません。でも、聖霊の賜物によってではなく、学校や会社のように組分けされるでしょう。教会員なので、義務的になるかもしれません。でも、教会員みんなで、教会を建て上げているという自負心があります。しかし、イエス様は「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と言われました。そして、教会は人間のものではなく、神のものであることを忘れてはいけません。国教会からは独立したかもしれせんが、神さまから独立してはいけません。私たちの上には神さまがおられ、神さまが教会の必要を与え、神さまが教会を導いてくださるのです。なぜなら、教会は「神によって集められた神の民」だからです。
結論的に言いますと、教会は建物ではありません。また、教会は制度や組織でもありません。教会は人々です。それを新約聖書は「聖徒たち」と呼んでいます。Ⅰコリント1:2「コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。」これは、コリントという場所にある神の教会という意味です。そして、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々です。現代は、聖職者はいません。エペソ4:11「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」教会はキリストのからだであり、かしらはイエス・キリストです。キリストご自身が、使徒、預言者、伝道者、牧師また教師を立てて、教会を治めるようにしているのです。でも、奉仕の主役は聖徒たちであることを忘れてはいけません。新約聖書に「牧師」が一回しか出ていません。その代わり「使徒」は80回以上出てきます。現代の教会は使徒と預言者が忘れ去られ、その代わり教団本部が管理しています。そうではなく、聖徒たちが整えられて良い働きができるためには、牧師だけではなく、使徒や預言者も必要なのです。
2.教会の存在目的とは?
「教会は何のために存在しているのか?」ということです。かなり前に「教会成長」というセミナーや訓練団体がありました。多くの人が救われ、教会員が多くなるということが最大のゴールでした。私も「教会の礼拝人数が多くなるように」と露骨に言っていたことがあります。確かに教会の人数が多くなれば、予算も増え、いろんな活動ができると思います。しかし、教会が大きくなることを喜ぶのは役員と牧師と一部の信徒でしょう。多くは「教会が大きくなると騒がしくて、交わりが薄くなる」と思っているかもしれません。そうなると、教会成長は牧師の野望であり、自己目的達成の道具になる恐れがあります。私の本音は、教会に多くの人が集まったら良いと思います。でも、そこに落とし穴があるということを40年近く牧会して分かりました。成長と肥え太るのは違います。人数が多くても、クリスチャンがバラバラであり、組み合わされて成長していないなら問題です。エペソ2:21,22「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」とあるからです。教会が組み合わされて、どのような働きをするのでしょうか?ここでは、「聖なる宮」「神の御住まい」とありますが、これは神殿のことです。教会は神殿にたとえられています。そうです。私たちが共に集まるのは、神さまを礼拝するためです。私たちは神の民として、神さまを礼拝するのです。でも、この礼拝は2種類あって、「プロスキュネオー」という神さまをあがめるという礼拝です。もう一つは、ローマ12章2節にある「ラトリューオー」という奉仕、神さまに仕えるという礼拝です。二つ合わせると、ワーシップ・サービスになります。神の神殿として、私たちは神さまを礼拝し、神さまに仕えるのです。
しかし、教会がこの世に存在している目的は、マルコ16章とマタイ28章にあります。これは「大宣教命令」として良く知られています。まず、最初マルコ16章から取り上げたいと思います。マルコ16:15-16「それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」このみことばは、私たちが福音を宣べ伝えること、伝道するということです。行いがなくても信仰によって救われるのですが、「信じてバプテスマを受けよ」と言われています。バプテスマはキリストと共に死んで、キリストと共によみがえるという儀式です。しかし、それは単なる儀式ではなく、バプテスマは「私は本当に、信じたのですよ」という確証を示すことなのです。結婚は入籍するだけで成り立つかもしれませんが、神と会衆との前で結婚式をすることはけじめになります。もう一つの意味は、バプテスマを受けることによって、教会に植えられるということです。バプテスマを受けたところが、母教会であり、信仰の成長のためにお世話になるということです。信じても教会に所属しない人は、信仰の成長は望めません。なぜなら兄弟姉妹の交わりの中で成長するようになっているからです。互いに愛し合い、互いに祈り合い、互いに建て上げ合うところが教会です。インターネットで、ユーチューブで聖書を学んだだけでは、正常なクリスチャンにはなれません。神の共同体である、教会に属する必要があります。教会には牧師や教師がいて、正しい教えを守っているので、信仰が偏って、異端にはまることはありません。そして、自分の信仰が固まったなら、こんどは家族や友人に福音を伝えて、キリストに導くという使命が与えられます。あなたも御国の大使であり、一人でも多くの人が神の国に入るように働く必要があります。救うのは神さまですが、福音を伝えるのは私たちの役目です。
もう1つはマタイ28章のみことばです。マタイ28:19,20「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」先ほどのマルコ16章ととてもよく似ていますが、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられています。私は学生伝道の「ナビゲーター」から、弟子訓練を学びました。「人を救いに導いたら、弟子にして、その弟子が新らたに人を導いて弟子にする」という倍加の法則ということです。しかし、現実にはそのようになりませんでした。ほとんどの福音派の教会は人々を救いに導いて、キリストの弟子にすると理解しています。しかし、このみことばをよく見ると「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われています。英語の聖書はall the nationsとなっています。nationsはギリシャ語で「エスネー」であり、人の集団、民族、国民と言う意味です。つまり、マルコ16章は個人の救いでしたが、マタイ28章は集団全体を弟子にする、国民全体を弟子とするという意味になります。主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈ります。御国は神の国(支配)ですから、国民に神の国(支配)がやってきて、国民がキリストの弟子になるようにということになります。これまでは、教会という建物や組織を中心に伝道を行ってきました。しかし、私たちが出かけるあらゆる場所に教会の働きができるということです。ピータ―ワグナーと言う人は、「職場の教会」とおっしゃいました。牧師は教会内のことしか考えません。しかし、社会変革をもたらすためにクリスチャンが派遣されているということです。また、そこには「職場の使徒」がおり、彼らを指導し導くということです。ビジネスマンでも豊かな富を稼いで、それを教会に持ち込む人がいます。政治や教育、芸術の場で、神の知恵と想像力でリードする人も出てくるでしょう。旧約聖書ではヨセフは王と共にエジプトを支配しました。ダニエルは王と共にバビロンを支配しました。もし、社会変革をもたらす弟子を作るなら、一般の教会が達することのできない政治や教育、医療、芸術、マスコミの場に福音を届けることができます。私たちは教会の活動が、四つの壁に囲まれた建物の中だけではないことを改めるべきです。職場の教会、市場の教会が存在します。またそこには職場の牧師、市場の使徒たちもいるということです。
3.教会はどこへ行くのか?
教会はいつ誕生し、いつ終わりを迎えるのでしょうか?私たちは西暦2,026年に生きていますが、神さまの時間で言うと「たったの2日」であります。なぜなら、ペテロ第二の手紙3章には「主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。…主の日は、盗人のようにやって来ます」と書かれています。私たちは世の終わり、終末の時代に生きていることは間違いありません。まず、教会の誕生について考えたいと思います。赤ちゃんがお腹の中にいるように、教会も神さまのお腹の中にいたときがありました。それは、イエス様を取り囲む、その十二人がそうでした。旧約聖書では12部族が神の民でしたが、失敗に終わりました。イエス様はそれを踏みなおすかのように、新しいイスラエルを作るために12人を選ばれました。一般に使われているギリシャ語のエクレーシアは、ちょっと別な意味があったようです。王様が国を作るときに大臣たちを集めました。そして、自分を取り囲む大臣たちをエクレーシアと言いました。だから、弟子たちはイスラエルが復興する日はいつなかのか聞いていました。そして、イエス様が王座に座られたら、だれが右に、だれが左に座るか争っていました。イエス様は弟子たちに「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです」(ルカ12:32)と言われました。端的に言いますと、イエス様を取り囲む弟子たちが、エクレーシア、教会だったのです。でもそれは、神さまのお腹の中にいたような教会でした。そして、教会が「おぎゃー」と誕生したのは、ご存じのようにペンテコステの日でした。この日、天から聖霊が注がれ、3000人が救われました。彼らは教会の初穂と言われる人たちです。
しかし、なぜ、教会が誕生したのでしょうか、パウロはローマ11章でこう述べています。「それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。」イスラエルが躓いたので、救いが異邦人である私たちにやってきたのです。しかも、イエス様は彼らに捨てられたけれど、教会の礎石になられました。ですから、教会はキリストをかしらとした異邦人の群れということになります。今は教会の時代です。でも、いつまでも続くわけではありません。パウロは「イスラエルの一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうしてイスラエルはみな救われるのです」(ローマ11:25,26)と言いました。つまり、ある時に、教会の時代が終わり、イスラエルが救われるときがやってくるということです。旧約聖書のダニエル書を読むと、70週と言うことが書かれています。1週は7年です。ダニエル書の預言によると、「69週目にメシアが断たれた」とあり、十字架の死のことです。しかし、それで時計が止まり、教会の時代がくさび型に入ってしまいました。でも、異邦人の満ちる時に、教会が終わります。同時に、時計が再び動き出し、70週目に入ります。ヨハネ黙示録の最後の1週、7年間は、イスラエルが救われる時になるのです。最初の3年半は比較的平和ですが、後半の3年半は大患難期と言われています。イエス様がそのいずれかに再臨なされます。
福音派の教会はイエス様が再臨したとき、教会は天に引き上げられ、患難を受けることはないと言ってきました。「しかし、そんなうまい話はない。私たちも患難を通り抜けなければならない」という説が多いのです。福音派の教会は、「この世はますます悪くなるので、この世に深く入り込んではならない」と言ってきました。そうなると、教会はまるで修道院のようになり、クリスチャンは世捨て人のようになります。今でも、そのことを強調する牧師たちがおり、ユーチューブを見ている人たちは厭世的に暮らしています。でも、ビルジョンソンたちは、「そうではない。教会は花婿なるキリストが来られるとき、花嫁として整えられるからだ」と言います。エペソ5:26-27「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」このところには、「傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる」とあります。つまり、世の終わりの教会は、みすぼらしい教会ではなく、傷のない栄光の花嫁の教会なのです。ですから、教会は厭世的になるのではなく、むしろこの社会に変革をもたらす、国を弟子とする教会であるべきなのです。つまり、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」ということを実現し終えたときに、イエス様が再臨なさるのです。
最近の教会の指導者たちは「世の終わり、教会は七つの山を治めるべきである」と述べています。七つの山とは、宗教、家族、教育、政府、メディア、芸術とエンターティメント、ビジネスです。ピーターワグナーは「世はますます悪くなる」という厭世的な人たちにこう述べています。「イエスがサタンの王国を神の国で侵略して以来、2000年が経ちました。私たちが望むような急激な変化はないかもしれませんが、イエスの時代から、神の国は天と同じように地上に来ています。人類は、イエスが来られる前よりもずっと良い状態にあり、人々はより充実した人生を楽しんでいます。確かに、不正、腐敗、性売買、戦争、貧困、暴力、中絶、病気など、深刻な社会問題はまだあります。時には、これらの問題があまりにも身近に迫ってくるため、世の中全体が良くなっているとは到底思えません。サタンの王国はまだ完全に解体されていないので、今述べたような悪を生み出す力はまだ持っています。…『御国を来たらせたまえ、御心を天のごとく地にも行わせたまえ』と祈り続け、神がその祈りに応えてきました。この御国志向の社会変革は、無神論者が主導するのではなく、神の民が主導するものであってほしいと願う人もいます。私の希望と祈りは、将来、事態が変わっていくことです。御国を意識し、御国を動機とする信者が七つの山で影響力のある地位に就くと、彼らは神がより急速で、より深遠な社会変革をもたらすために使われる人たちです。そうすることで、私たちはイエスの大いなる使命を果たすことになるのです。」世の終わり、聖霊が教会に対して豊かな油注ぎを与え、最後のリバイバルを与えるでしょう。でも、魂の救いだけにとどまらず、社会が変革され、キリストの花嫁として整えられてこそ、花婿なるキリストをお迎えすることができるのです。