亀有教会副牧師 毛利佐保
◆聖書箇所: エレミヤ書45章(聖書引用:新改訳2017)
- 本日の中心聖句
<エレミヤ45:2-5>
*************
45:2
「バルクよ、イスラエルの神、主は、あなたについてこう言われる。
45:3
『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」
45:4
「エレミヤよ、あなたは彼にこう言え。『主はこう言われる。見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。
45:5
あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──主のことば──。しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。』」
*************
本日は、エレミヤ45章から、「書記バルクの忠実」について考えていきたいと思います。
バルクは預言者エレミヤの書記で、エレミヤを支え、危険を共にし、最後までエレミヤの傍らにいた人です。
聖書には、偉大なリーダーたちがたくさん登場します。
モーセ、ダビデ王、異邦人伝道者のパウロ、そして預言者エレミヤ。
しかし聖書をよく読むと、どんな偉大なリーダーであっても、決して一人では働きを成し遂げていません。
リーダーを背後で支え、後押しし、祈り、神に忠実な人たちがいました。
例えば、モーセにはアロンとフル、ダビデには預言者ナタン、パウロにはルカなど。
そしてエレミヤには、書記バルクがいました。
どんなスーパーリーダーでも、一人では限界があります。疲れます。孤独になります。弱る時があります。
ですから神は、「支える人」を備えられるのです。
本日は、このバルクの姿から、「神への忠実と信仰」について学びたいと思います。
◆書記バルクの忠実
① 恐れない信仰。
エレミヤ書には、バルクの名前が何度も出てきますが、特に有名な箇所は36章と、本日の45章です。
エレミヤ書は時系列では書かれていません。
実は36章と45章は同じエホヤキム王時代の出来事で、続きとなっています。
エレミヤ書36章には、このような出来事が記されています。
時代は、南ユダ最後の王ゼデキヤの二つ前の王、エホヤキムの時です。
エホヤキムはバビロンから命じられた傀儡王でしたが、やがて反旗を翻して失脚することになります。
主は、エホヤキムやユダの民たちが、悪の道に進むことを望んではおられませんでした。
ですからエレミヤに、これまで語った預言を巻き物に書き記すようにと命じました。
これを読んだ民たちが、悪の道から立ち返るかもしれないと主は語られました。
主の御言葉をエレミヤが口述し、書記のバルクがその言葉を書き取って巻き物にしました。
その時エレミヤは、エホヤキン王から閉じ込められていたようで、主の宮に行けない状態でした。
そこでバルクが、エレミヤの代わりに宮に行き、民の前で巻き物を読み上げました。
それを聞いていた首長たちは、わざわいが来ることを恐れて、巻き物をエホヤキム王に届けました。
巻き物は王の前で読み上げられましたが、王は、巻き物を小刀で切り裂き、暖炉の火に投げ入れて、すべて焼き尽くしてしまいました。
そのことにより、ユダとエルサレムに対する主のわざわいは決定的となりました。
その後、主は再びエレミヤに巻き物を書き直させ、王への裁きを宣告されます。
この章の中心となるメッセージは、「人は神の言葉を拒むことはできても、神の言葉を滅ぼすことはできない。」ということです。
バルクは再び巻き物を完成させました。
イザヤ書40章の御言葉の通りです。
<イザヤ40:6-8>
*************
40:6
「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。
「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
40:7
主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
40:8
草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
*************
人はみな草のようで、その栄えは野の花のよう。主の息吹によって、しおれるし、散ってしまいます。
しかし、「神のことばは永遠に立つ」、本当にその通りです。
エレミヤの預言活動は、B.C.586年に南ユダ王国が滅亡するまで、約40年間続きました。
その間、ヨシヤ、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの5人の王に神の御言葉を伝えました。
最初のヨシヤ王以外の王からは、疎まれて、幾度となく捕らえられ、幽閉されたり追い出されたりしました。
バルクはそのことを傍らでずっと見て来ました。
エレミヤと共に、恐ろしい目にも遭ってきたことでしょう。
しかし、バルクは肝が据わった人でした。彼には、「恐れない信仰」がありました。
今回も、宮で巻き物を読み上げているとき、捕えられても不思議ではない状況だったと思います。
現に、首長たちは、エレミヤとバルクに、「身を隠しなさい」とまで言いました。(エレ36:19)
それでも、彼は、恐れずに、信仰をもって使命を果たしました。
神の言葉を書き続け、読み続け、エレミヤを支え続けました。
もしバルクがいなければ、エレミヤ書は後の世に残らず、私たちも読むことができなかったかもしれません。
書記バルクの恐れない信仰に感謝します。
◆書記バルクの忠実
② 役割を心得ている。
人にはそれぞれ主が与えてくださった役割があります。
書記バルクは、自らの役割を心得ていました。
彼は教養もあり、大変優秀な人物であったと考えられます。
彼は、「ネリヤの子バルク」と呼ばれ、「ネリヤの子セラヤ」という兄弟がいます。(エレミヤ51:59)
兄弟セラヤは、南ユダ最後の王、ゼデキヤに仕える高官でした。
家系としては、位が高かったと考えられますが、バルクの方は王には仕えることはせず、エレミヤと共に苦難の道を歩む事を選びました。
これはバルクの、神への畏敬と忠実と信仰から来る決断だったと思います。
そして彼は、エレミヤに同行して支えるという、自分の賜物に応じた役割を心得ていました。
このように、賜物に応じて、忠実に仕えてきた人が、聖書の中にもたくさん出てきます。
新約聖書に出てくる異邦人の使徒と呼ばれるパウロにも、「バルクのような人」がいました。
それがルカです。ルカは医者でした。
教養があり、観察力が高く、細かな記録能力を持ち、テオピロという高官の支援を受けている人です。
彼がなぜ、パウロに同行することになったのかはわかりません。
パウロと宣教に出かけて、迫害され、危険にさらされなくても、彼は安全で裕福な暮らしができたはずです。
しかしルカはそのような人生を選ばず、パウロと共に異邦人への福音伝道の旅へと出かけました。
そして、書記バルクのように、パウロの働きを記録として残しました。
もしルカがいなければ、私たちは『ルカの福音書』 も、『使徒の働き』 も読むことができませんでした。
ルカはスーパーリーダーではありませんでしたが、自らの役割を心得ていて、賜物を十分に生かしました。
彼の主への忠実な信仰が、パウロの働きを、福音を、後の時代へ届けることに繋がりました。
パウロが人生の終盤に語った言葉があります。
<Ⅱテモテ4:10-11>
*************
4:10
デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。
また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行きました。
4:11
ルカだけが私とともにいます。
*************
「ルカだけが私とともにいます。」
パウロにとって、ルカの存在がどれほど心強かったかという事が解る手紙です。
この手紙は、パウロがローマで捕らえられ、殉教を前にした時期に、弟子のテモテ宛に書かれました。
パウロの最後の手紙だと言われています。
周りのみんながどんどん離れていく中で、ルカは最後までパウロのそばにいました。
どんな偉大な使徒でも、一人では立ち続けられません。
パウロにも、「そばにいる人」が必要だったし、主がルカをパウロの傍らに置かれました。
ルカは、自分の役割を心得ていて、見事に果たしました。
書記バルクにしても、ルカにしても、安全な場所ではなく、わざわざ苦難の道を選んでいるのは、人間的な思いや感情というよりも、忠実に主の御声に従った結果だと考えられます。
インド宣教で知られている、イギリス人、ウィリアム・ケアリー(1761年~1834年)をご存知でしょうか。
彼のインド宣教における苦難と働きは、華々しく後世に語り継がれています。
しかし、そのケアリーを支え続けたのは、アンドリュー・フラー(1754年~1815年)でした。
私は、ウィリアム・ケアリーのことは知っていましたが、アンドリュー・フラーのことは知りませんでした。
***********************************
ウィリアム・ケアリーは、「近代宣教の父」と呼ばれています。
彼はもともと、靴職人でしたが、神の召しを受け、インド宣教へ向かいました。
18世紀の当時としては、命懸けの決断でした。
インドでの生活は、想像以上に困難の連続でした。
極度の貧困、家族の苦しみ、妻の精神的不調と死、仲間との対立、孤独。
1793年にインドに渡って7年間は、ほとんど改宗者が出ませんでした。それでも彼は諦めませんでした。
語学の才能を生かして、聖書翻訳を進め、印刷所を設立し、学校を建て、福音を伝え続けました。
また、サティーという寡婦殉死(夫を亡くした妻の殉死)の廃止運動に貢献しました。
その後、彼は多くの改宗者を生み出し、インド宣教の土台を築きました。
そして、インドに渡って40年間、一度もイギリスに戻らずインドで亡くなりました。
***********************************
しかし、その偉大な働きの背後には、彼を支え続けた人物がいました。それが、アンドリュー・フラーです。
フラーは農家出身のバプテスト派の神学者であり、牧師でした。
その時代、「神が救うのなら、人間は積極的に伝道しなくても良い。」という極端な考え(ハイパー・カルヴァン主義)が広まっていました。
これに対してフラーは強く反対し、「すべての人に福音を語るべき」「信じるよう招くべき」と主張しました。
その流れの中で、ケアリーの海外宣教運動も生まれました。
***********************************
ケアリーがインド宣教へ行く時、彼は仲間たちにこう言いました。
「私は深い井戸へ降りて行く。だから誰かが、上でロープを握っていてほしい。」
するとフラーは答えました。
「あなたが降りるなら、私はロープを握り続けよう。」
ケアリーは前線へ行きました。
フラーは、イギリス本国で祈り、定期的に国内を巡り、宣教団を代表して資金を集めました。
本国で、海外宣教についてのバッシング(批判)を一身に受けつつ、彼はケアリーに励ましの手紙を書き、資金を送り、宣教を支え続けました。
**************************************
もしフラーが途中でロープを離していたら、ケアリーの働きは続かなかったかもしれません。
どんなスーパーリーダーでも、ロープを握る人が必要なのです。
エレミヤにとって、その存在がバルクでした。
パウロにとって、その存在がルカでした。
そしてケアリーにとって、その存在がフラーでした。
考えてみれば、「支える人」とか、「目立たない働き」、と言っても、バルクも、ルカも、フラーも、これだけの働きをしていたのですから、当時かなりの有名人だったはずです。
しかし彼らは、そんなことは気にもかけず、ただ主に従い、忠実に役割を果たした尊敬すべき方たちです。
◆書記バルクの忠実
③ 主の守りに信頼する。
自らの役割を心得て、エレミヤとともに突き進んできたバルクでしたが、そんなバルクも疲れて弱音を吐いてしまうことがありました。本日の45章です。
<エレミヤ45:2-5>
*************
45:2
「バルクよ、イスラエルの神、主は、あなたについてこう言われる。
45:3
『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」
45:4
「エレミヤよ、あなたは彼にこう言え。『主はこう言われる。見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。
45:5
あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──主のことば──。しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。』」
*************
この主からの御言葉は、36章と同じ時、エホヤキム王がバルクが書いた巻き物を焼いた時代のことです。
主の御言葉を巻き物に書いて、命がけで民に伝えに行っても報われない。
そんなことの連続だったことでしょう。
バルクは疲れ果て、思わず主に、『ああ、私はわざわいだ。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない』 と、不満をつぶやいてしまいました。
しかし主は、バルクの働きを見ておられました。
神は彼に、「わたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。(エレ45:5)
と言われました。
「いのちを戦勝品としてあなたに与える」とは、「いのちの安全」を保障してくださったということです。
人間の営みは、いのちの安全が守られなければ、成り立ちません。
まず、一番ベースに来る必要です。これがあるからこそ、前を向いて歩くことができます。
主はバルクに、「あなたが行くどこででも、わたしがあなたを守る」という約束をしてくださったのです。
この主の力強い御言葉は、バルクにとって、どれほど大きな励ましと慰めだったことでしょう。
国が滅びようとしている。周囲は混乱している。先が見えない。
しかしその中で神は、「わたしがあなたを守る」と、言ってくださったのです。
ここで注目したいのは、エレミヤ書の45章が丸々バルクの記述であるということです。
ここには神の大きな意図、私たちへのメッセージがあるのではないでしょうか。
バルクのように、忠実に支える働きをしながら、報われない思いをしている人への励ましではないでしょうか。
神は、バルクのような働きをしている人たちを、けっして忘れることなく、特別に目をかけてくださっていると伝えてくださっているのではないでしょうか。
マタイの福音書25章で、イエス様が語られたタラントのたとえを思い出してみましょう。
主人から預かったタラント(賜物)を用いて、上手に増やしたしもべに対して、主人はこう言いました。
<マタイ25:21>
*************
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
*************
主は忠実な人を愛し、「私を(あなたを)守ってくださる」方なのです。
人が守ってくれるのでも、地位やお金が守るのでもありません。
主ご自身が、私たちを守ってくださると約束してくださっているのです。
ですから私たちは、安心して忠実に主に仕えることができるのです。
教会にも、前に立つ方がいます。説教する方、賛美を導く方、リーダーとして立つ方。
しかしその背後には、ロープをしっかり握ってくださっている方たちがいます。
いつも祈ってくださる方、見えない所で奉仕をしてくださっている方、献金をもって支えてくださる方、疲れている人を励ましてくださる方、主はバルクを見ておられたように、そういう方たちを特別に見ておられます。
この世は、目立つ人を評価しがちですが、主は忠実を見ておられます。
そして忠実に仕える人に、「わたしは、あなたが行くどこででもわたしがあなたを守る」と言ってくださいます。
今日、神様は私たちにも問いかけておられるかもしれません。
「あなたは、誰かのロープを握っていますか。」
バルクのような忠実は、神の国を支える尊い働きです。
バルクのように、「恐れない信仰」を持ち、「役割を心得て」、「主の守りに信頼」して歩みましょう。
いつの日か、イエス様に「よくやった、良い忠実なしもべだ。」と言っていただけるように、仕えていきましょう。