2026.5.24「二重の聖霊降臨 使徒2:1-4」

 旧約時代は「五旬節」と呼ばれる祭りがありました。大麦の初穂の束をささげる日から50日目に行われ、その後に小麦の収穫が始まります。しかし、新約聖書的には「五旬節」の日、聖霊が天から下りました。イエス様が復活した日から50日目にあたります。ペンテコステはギリシャ語の50から来ています。きょうは、ペンテコステの日、二重の意味で聖霊が降ったということを申し上げたいと思います。

1.内なる御霊

 ヨハネ20章にありますが、イエス様は復活された夜、弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と言われました。少なくともその部屋には11人の弟子たちがいたと思われます。私はイエス様が息を吹きかけたとき、たしかに弟子たちは内側に聖霊を受け、新しく生まれ変わったのではないかと思います。このことはヨハネ14章から16章まで言われていたことが、先んじて成就したということです。イエス様は復活後、一度、天にお帰りになり、また戻ってこられたのだと思います。完全に天にお帰りになったのは、復活から40日後であります。でも、その間、イエス様は消えたり、現れたりを繰り返しておられました。Ⅰコリント15章によると、500人以上の兄弟たちに同時に現れたと記されています。ペンテコステの日、二階座敷に集まっていた弟子たちは120人なので、380人はそこにいなかったことになります。私はペンテコステの日、11人を除く、120人の弟子たちは、上からも内側からも同時に聖霊を受けたのではないかと考えます。いきなりこんなことを申し上げてしまい、混乱を与えてしまったでしょうか?それでは、内なる御霊ということを詳しく述べたいと思います。

 ヨハネ14:16-17「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」ヨハネ14章では「助け主」と呼ばれています。「助け主」はギリシャ語で、パラクレートスであり、「弁護のため呼ばれたるもの」という意味です。また、「真理の御霊」とも呼ばれ、キリストがおっしゃったことを思い起こさせ、理解させてくださるということです。助け主は父なる神が与える聖霊であり、「あなたがたとともにおられる」また「あなたがたのうちにおられるようになる」と言われています。かつて、弟子たちとともにおられたのは、イエス様です。でも、イエス様が天にお帰りになったあと、聖霊を与えてくださるのです。16節に「父はもう一人の助け主をお与えになる」とあります。ギリシャ語ではアロス・パラクレートスです。アロスとは姿かたちは全く同じという意味です。聖霊はイエス様と姿かたちは全く同じなのですが、ご人格が異なるということです。簡単に言うと、聖霊はイエス様と同じお方だということです。

 パウロは自分の手紙で聖霊を「キリストの御霊」と呼んでいます。ローマ8:9「しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」これはどういう意味でしょう?イエス様を信じているクリスチャンには、もれなく聖霊が与えられているということです。神の御霊がうち住んでいる、すなわちキリストの御霊を持っているということです。Ⅰコリント6章19節には「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません」と書いてあります。かつて、神さまはモーセの幕屋、あるいはソロモンが建てた神殿におられました。その後、バビロンによってエルサレムの神殿が取り壊されてしまいました。神さまはどこにいらっしゃったのでしょう?神の子、イエス様のうちにおられました。マタイ1:23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。神さまは聖霊によって、御子イエス様のうちにおられました。ニコデモはイエス様にこう言いました。「神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません」(ヨハネ3:2)。しかし、今度は、人がイエス様を信じたら、霊的に生まれ変わり、聖霊によって神さまが共に住むようになるのです。

 聖霊が内側に共に住むと言うことを軽く考えてはいけません。アダムとエバが罪を犯してから神の霊は彼らから離れてしまいました。創世記6章3節「そこで、【主】は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」アダム以来の人間は、霊的に死んでいる状態です。つまり、神の霊が内側に住んでいないということです。でも、旧約時代は聖霊が神の人に一時的ではありますが、とどまることがありました。これはペンテコステの日、聖霊が上から臨んだことと同じ現象であります。たとえば、サムソンです。士師記14章6節「このとき、【主】の霊が激しく彼の上に下ったので、彼はまるで子やぎを引き裂くように、何も手に持たず獅子を引き裂いた。」サムソンが怪力を持っていたのは聖霊の力でした。エリヤやエリシャが奇跡を行うことができたのは、上から注がれた神の霊でした。また、ソロモンの知恵も聖霊であり、イザヤやエゼキエルが預言できたのも聖霊の力でした。旧約時代の聖霊は一時的にしか人の上に留まりませんでした。だからダビデはこう祈っています。詩篇51篇11節「私をあなたの御前から投げ捨てずあなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。」このように、聖霊が共におられたのは、一時的であり、しかも限られた人たちでした。

 イエスラエルの民が罪を犯して悔い改めても、また同じ罪を繰り返して行いました。私たちは民数記を見ると、嫌になります。また、第一列王記、第二列王記を見ても、なぜ、あのような偶像礼拝に走るのか、嫌になります。生まれつきの人間には神さまの戒めを守る力がないのです。だから、エゼキエルはこのように願っています。エゼキエル11:19,20「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。こうして、彼らはわたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行う。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」パウロもローマ7章で悩んでいますが、私たちの内側には神の律法を守る力がありません。かえって、律法に逆らいたくなるのです。私たちが霊的に新しく生まれ変わり、心の板に律法を書いていただくしかありません。パウロはⅡコリント3章で「それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです」と言っています。つまり、ペンテコステの日、聖霊が天から降されてからは、聖霊が人を新しく生まれ変わらせ、神さまに従うことがきるようになるということです。ペンテコステの日、エゼキエルが預言していたことが成就したということです。つまり、キリストを信じる人に、新しい霊が与えられ、神とともに歩める神の民となるということです。なんとすばらしいことでしょう?第二のポイントでは、ペンテコステは力の霊であることを申し上げます。しかし、力を受ける前に知るべきことがあります。それは、旧約時代になかった霊的に新しく生まれることと、内側に聖霊が住んでくださることが成就したことです。

 聖書には聖霊に満たされると言う表現が二つあります。それは外側と内側に満たされるということです。外側のことは第二のポイントで言いますが、内側に満たされることも同じくらい重要です。エペソ5章18節「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」アーメン。この満たされるは、支配されなさいという意味です。パウロはガラテヤ5章でさらにそのことを述べています。そのことを御霊の実と呼んでいます。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。…しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」御霊の実とは人格的な実であり、キリストに似た者になるということです。私は人のことを言えませんが、これでもだんだんキリストに似た者と変えられていっていると信じます。家内から唇が汚れていると言われますが、愛、喜び、平安はあります。時間はかかっていますが、寛容さ、柔和さ、自制もできつつあると信じます。しかし、これらは外側からの律法では不可能です。律法を押し付けるなら、肉が反応してしまうからです。そうではなく、ぶどうの木のたとえのように、キリストにとどまるなら、自然とキリスト様から御霊のいのちが流れてきて、御霊の実を結ぶことができるのです。パウロが奥義について語っています。奥義とは秘密であり、滅多に明かされていないことです。コロサイ1章27節「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」神が、キリストが聖霊によって私たちの中におられること、これよりもすばらしいことはありません。イエス様は「なおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と約束しています。

2.外からの御霊

 使徒の働き2章はペンテコステ、すなわち聖霊降臨で有名な箇所です。でも、その前の出来事がルカ24章に記されています。ご存じのように、「使徒の働き」は、「ルカによる福音書」の続編なのであります。ルカ24章は預言であり、使徒の働き2章はその預言の成就ということになります。それではまず、ルカ24章48,49節をお読みいたします。「あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」このことばは、イエス様が昇天される直前に語られたものです。イエス様は復活して40日目に天にお帰りになられました。その後、弟子たちは都であるエルサレムにとどまっている必要がありました。何のため?いと高き所から力を着せられるまでです。私たちはそれから10日後ということが分かりますが、弟子たちはあと何日待たなければならないのか分からなかったのです。では、どのくらいの弟子たちが聖霊降臨まで待つことができたのでしょうか?使徒の働き1章14,15節「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていた」とあります。11弟子たちの他、イエス様につき従っていた女性たち、母マリア、そしてイエス様の肉の兄弟も含まれていました。彼ら家族は以前、イエス様を連れ戻しに来ましたが、今では一緒に聖霊を待ち望む人たちの中にいました。すばらしいことに、ヤコブとユダは聖書の書簡の一部を書いています。

 ところで、ルカ24章には「いと高きところから力を着せられるまで」となっています。かつて、エリシャはエリヤに「あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と願いました。それで、どこまでもエリヤを追いかけました。いよいよ、エリヤが竜巻に乗って天に上って行こうとしていました。その時、エリヤの身から外套が落ちてきて、エリシャはその外套を着たのです。人々はそれを見て「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言いました。これこそが、力を着るということです。それから、エリシャは数々の力あるわざを行うことができました。イエス様の弟子たちは十字架と復活の証人でした。でも、人々を恐れて家の中に隠れていました。イエス様は彼らに何とおっしゃっていたでしょうか?「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」。同じことばが使徒の働き1章にもあります。使徒の働き1章8節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」ここで言われている「聖霊があなたがたの上に臨むとき」の「上」はuponであり、ギリシャ語はエピです。使徒の働き2章の聖霊降臨時はどうでしょう?使徒2:3,4「また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」ここにも「上」があります。「上」はuponであり、ギリシャ語はエピであります。

 なぜ、私はこんなことを言うのでしょうか?かなり前に、チャック・スミスが書かれた『カルバリー・チャペルの特徴』という本を読んだことがあります。そこには聖霊のバプテスマということが書かれていました。チャック・スミス師は聖霊のバプテスマとは、使徒の働き2章にあるように聖霊が「上から臨むこと」つまり、uponギリシャ語で「エピ」であると言いました。それに比べ、キリストを信じたときに受ける聖霊はinギリシャ語で「エン」であると言いました。私はその本を読んだ時、聖霊のバプテスマはイエス様を信じたときのことを言うのだと固く信じていました。なぜなら、ビリーグラハムの『聖霊』という本を読んでいたからです。ビリーグラハムは福音派の代表的存在です。彼がペンテコステ派の信徒から「あなたは聖霊を受けましたか?」と質問されたそうです。ビリーグラハム師は「ええ、キリストを信じたとき受けました」と答えました。するとペンテコステ派の信徒は「では、異言を語ることができますか?」と聞きました。ビリーグラハム師は「いや、異言は出ませんが、聖霊を受けています」と答えました。両者の会話はとてもちくはぐでした。ペンテコステ派の信徒は「聖霊を受けるとは、聖霊を上から受ける聖霊のバプテスマ」のことを言っていたのです。ところが、ビリーグラハム師はキリストを信じたときに内側に受ける聖霊のことをおっしゃっていたのです。私はそれまで、ビリーグラハム師の主張を信じていたので、チャック・スミス師の本は、どこかにほっぽっていました。

 それから4,5年たって、ウォッチマン・ニー師の『霊霊』という本を読みました。ウォッチマン・ニーは聖霊に満たされるには二種類あると述べておりました。第一のポイントで申し上げた「内なる御霊」はどうでしょう。人が新生して聖霊が内側に住むようになります。そして、エペソ5章にあるように「御霊に満たされる」という経験をします。この満たされるのギリシャ語は、プレローであり、内側が満たされるという意味です。たとえば、コップが水で満たされるとき、プレローと言います。ところが、使徒の働き2章4節の「聖霊に満たされ」は、プレスーオーです。プレスーオーは外側が満たされるという意味だそうです。たとえて言うと、水のバプテスマを受けるとき、洗礼槽にどっぷり浸かるようなものです。水に沈むと、その人の外側は水で全部覆われる、つまり水で外側が満たされることになります。つまり、聖霊のバプテスマとは外側が聖霊で満たされることなのだと言うのです。私は「ああ、そうなのか」と納得しました。イエス様がルカ24章で「いと高き所から力を着せられるまでは」と言ったことと同じだと思いました。しかし、これまでのことは、あまり興味がないかもしれません。みなさんは、「どうでも良いことではないかと」思うかもしれません。確かにそうなんですね。でも、外側が満たされる、つまり聖霊のバプテスマを受けるとどのような効果というか、違いがあるのでしょうか?福音派の人たちは、聖霊によるきよめ、人格的にキリストのようになることを強調します。「きよさは力です」とまで言います。しかし、それは違います。きよさと力は違います。サムソンはきよさはありませんでしたが、力がありました。エリヤやエリシャは奇跡を行いました。ソロモンは知恵がありました。イザヤやエレミヤ、エゼキエルには預言がありました。それらは人格とは関係ありません。聖霊によるものです。

 イエス様は何ゆえ、「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と言われたのでしょうか?また、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、力を受けます」とはどうことなのでしょうか?イエス様はかつて弟子たちにこのように言われました。ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」これはどういう意味でしょう?イエス様が父のもとに行って、聖霊を弟子たちに与えるからです。その聖霊によって、イエス様と同じことができるということです。イエス様も公生涯に入るとき、バプテスマのヨハネから洗礼を受けました。その直後、天が開け、神の御霊が鳩のようにイエス様の上に下られました。あのイエス様ですら、聖霊の力がなければ、あのような奇跡を行うことができなかったのです。もちろん、イエス様はご自分でできたでしょうが、あえて、神の御霊、聖霊によってなさられたのです。それは私たちも同じことをするように手本を示されたのです。Ⅰコリント12章には御霊の賜物が記されています。「ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」これらは聖霊が与える賜物であり、イエス様はすべての賜物を活用しておられたと思います。つまり、聖霊が上から臨む経験、聖霊のバプテスマによって御霊の賜物が開花し、豊かに用いられるということです。

 では、いつ聖霊のバプテスマが与えられるのでしょうか?使徒の働き19章にそのヒントがあります。パウロはエペソの人たちに「信じたとき、聖霊を受けましたか?」と聞きました。しかし、彼らはヨハネのバプテスマしか受けていませんでした。その後、パウロは福音を語り、主イエスの名によってバプテスマを授けました。おそらく、そのとき彼らは聖霊を内にいただき、新生したものと思われます。その後、パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりしました。これは、聖霊が上からくだられたということです。聖霊のバプテスマです。これによって、御霊の賜物が顕著に現れたのです。一般的には、イエス様を信じたときに聖霊を内側に受け、新生します。その後、聖霊が上から臨み、聖霊のバプテスマを受けるということではないかと思います。しかし、使徒の働き10章のコリネリウスたちは、逆でした。ペテロがまだ話し終えていないとき、聖霊が彼らの上にくだりました。その後、彼らは水のバプテスマを受けました。私たちの小さな頭では考えられません。まとめです。ペンテコステ以来、聖霊がキリストを信じるすべての人に与えられるようになりました。聖霊がキリストの御霊として、人の内に住んでくださり、栄光から栄光へと主の似姿に変えられます。また、聖霊は神の奉仕ができるように、上から臨み、力と賜物を与えてくださいます。それは力強い、キリストの証人になるためです。私たちは生来の才能だけではなく、聖霊の賜物によってミニストリーができるのです。聖霊を内側にも、外側からもいただきましょう。