昔、李光雨先生のもとで『怨念晴らし』を学んだことがあります。そこによく出てくるのが「過剰反応」ということばでした。過剰反応とは、1つの状況の中で、感情的になり、過剰に反応してしまうことです。一般的には過剰反応している人と、それを受けている人がいます。人でないかもしれないし、地震や災害、不幸な出来事かもしれません。まわりの人たちは、常軌を逸しているのは分かりますが、どうしてそうなっているのか分かりません。「ちょっとオーバーじゃないの」と言いたくなりますが、それを言ってしまうと火に油を注ぐことなり、とばっちりを受けるでしょう。だれでも、何かに対して過剰反応することがあります。しかし、過剰反応は主の癒しと解放を受けるための宝であることを知っていただきたいと思います。
1.三つの核信念
李光雨先生は『過剰反応ダイヤリー』を付けるように勧めています。いつ、どんな状況で、感情的に爆発したのか日記を付けます。妻が夫のひとことで「カチン」と来たかもしれません。会社で上司から注意を受けて落ち込んだかもしれません。1か月を振り返ると、レベルの差はあれ、過剰反応したことがあるのではないでしょうか?でも、感情ばかりが残り、そのとき自分は何を考えていたのか究明する人はほとんどいません。本当の原因は、その状況を捉えた考えがゆがんでいるので、感情的に爆発したのです。でも、なぜ、過剰に反応するのか、考えたこともありません。実は、その人の過剰反応には、共通したテーマがあるということです。人によって、同じ状況であっても、過剰に反応する人もいれば、まったく平気な人もいます。過剰に反応したときは、自分の世界が壊れているときなのであります。「世界」というよりも、「自分の存在」でも良いかもしれません。最近は、心の問題を解決するために、認知行動療法が流行っています。
「認知行動療法の父」として知られているアーロン・ベック博士は「人々が一般的に考える否定的で誤った3つの信念から有毒な感情が生じる」と言っていました。信念というのは、ゆがんが考えを生み出すものであり、その信念の塊を「核信念」と呼んでいます。李降雨先生は「コア世界観」と呼んでいます。第一は「私はうまくやらなければならない」I must do well.です。丸屋真也師はこれを「脅迫的な信念」と呼んでいます。つまり、何かをすることによって愛を得るというようなものです。「私はいつも完璧であるべきだ」「私は何かを達成しなければ愛は得られない」「私は常に生産的でなければならない」などです。脅迫的な人というのは、他人に対して、与えることができます。だから、責任感が非常に強くて、一生懸命働いて、達成するような人は、まさに脅迫的な信念があります。こういう人は、わりと不安で、心配性です。また、脅迫的な人は摂食障害が多いということです。また、脅迫的な人の特徴は、人には与えることが出来るけれど、自分が他人から何か受けるということが非常に難しい。脅迫的な人というのは、何か達成することに、中毒になっていきます。わりと完ぺき主義な人であり、将来に対して悲観的です。信仰的な面からすると、神の愛、つまり無条件の愛を受け入れることが難しいのです。「神様の愛は何かをすることによって、得られるものだ」と考えてしまいます。だから、何か失敗すると、「神様から愛されていないんじゃないか」という思いに駆られてしまいます。
第二は「あなたが私をちゃんと扱わなければならない」You must treat me well.私から、「あなた」に関心が移りました。丸屋真也師はこれを「適合的な信念」と呼んでいます。この人は「愛されるために人々の承認を求めるような信念です」。「もし人々が自分のことを真に知れば、彼らは自分がダメな人間だと考えるだろう」「私は他人の感情に全責任がある」「私が常に利己的でなれば、他人はもっと私を愛するだろう」。適合的な人というのは、どんな人かと言うと、非常に協力的です。何かをするとき協力します。だから、この人はチームプレイにわりと合っています。合わせるので、人々とはうまくやっていけます。ただ、適合的な人は、人から認められないと「私はダメなもの」みたいに落ち込む傾向があります。この土台は何かというと、依存的であり、共依存的でもあります。つまり、他人のことを必要以上に気にしてしまうのです。何か問題が起こると、「私に問題があったのではないか?」そして、自分を抑えてしまいます。だから、わりと鬱になりやすい人というのは、この適合的な信念をもっている人が多いのです。
第三は「この世界が楽でなければならない」The world must be easy. 私からあなた、そして、周りの世界になりました。丸屋真也師はこれを「支配的な信念」と呼んでいます。支配は英語でコントロールと言います。「物事が自分の思うように進まなければ、自分はもうだめだ」というのは、自分のコントロールです。この人が何かをしているときに、思うように進まないと、そこから乗り越えることが非常に難しいのです。「人が自分の望むようにしなければ、自分のことを大事にしていない」というのは、他人のコントロールです。人が自分の望むようにしてもらえるように、必死でいろんなことをします。「自分は強くなければならない。なぜなら強いものだけが好かれるから」というのは、自分と他人のコントロールです。「悪い人は罰されるべきである」というのは、他人のコントロールです。このコントロールに関して言えば、私たちはある程度、コントロールできているうちは良いけれど、必ず、私たちは自分のコントロールが利かなくなることがあるのではないでしょうか?
おおまかに、核信念、あるいはコア世界観には3つあると申し上げました。脅迫的な信念は「自分が物事をできるかどうか」です。適合的な信念は「人との関係がうまくいくこと」です。そして支配的な信念は「自分、人、周りがコントロールされているかどうか」です。確かに、核信念は大まかに3つに分けることができます。しかし、個人個人の信念はもっと複雑です。その人の生い立ちや受けたひどい扱いによって、もっと細かく分けられるでしょう。次のステップに行くためには、自分独自の核信念を特定するということです。言い換えると、「自分の世界のテーマは何なのか?」ということです。一人ひとり、未解決のテーマをぶらさげて、それに縛られて生きていると言っても過言ではありません。だれかが、その地雷を踏んでくれます。すると、あなたは自動的に過剰反応してしまうのです。李光雨師はそれを「怨念晴らし」の世界と呼んでいます。
2.テーマを探る
それは、現在起こっている過剰反応のテーマを探ることです。そこには必ず一定のテーマがあります。だから、「過剰反応は宝である」と言いたいのです。その人の歪んだ核信念が、まさに飛び出している状況だからです。李先生もおっしゃっていますが、現在起こっている過剰反応を処理するバンド・エイド的なもの(励まし、同情、慰め)では効果がありません。しばらくたつと、また同じことが起こります。それが恒常化すると、だんだん生き辛くなります。ですから、自分のテーマを発見し、そこに解決を与えなければなりません。解決というのは、ゆがんだ核信念を聖書的な考えに変えるということです。でも、その前に、自分の核信念を「ひとつのことば」で、特定する必要があります。そのためには、現在から原点をさぐるということです。つまり、成育史において、いつどのようにして、自分の世界が壊れたのか探るということです。それが原因で、大人になって同じような状況が起きた時、過剰反応をしてしまうのです。つまり、過剰反応を起こしてしまう、その原点を探ると言うことです。
李光雨先生がこのようなケースを話してくれました。ある姉妹が職場で働いていましたが、周りの人たちは仕事を全然やってくれません。自分だけが損な役回りをしています。何もやらない上司が、彼女に「あなたがやって下さいよ」と言いました。そのとき、「私だけにやらせないでよ」と過剰反応しました。彼女が中学生位のとき、お母さんが鬱になって、家のことを全部自分がしなければなりませんでした。下に弟が二人いましたが、何もやりません。自分だけがやります。そのとき「自分が犠牲を払わないと世界が壊れる」という強迫的核信念を持ったのです。だから、どんな状況の中でも頑張らなければならないと言う行動原理があります。だから、会社に入っても、同じようなことが繰り返されます。本当は自分がしなくても良いのですが、世界が壊れないように、頑張ってしまうのです。心の中で「私がどれだけ自分を犠牲にしているか分かってよ」と叫んでいるのです。解決は何でしょう?「あなたが貢がなくても世界は壊れない」ということです。自分を差し出すのをやめて、境界線を引くということです。人の責任と自分の責任を分けるということです。この姉妹は一番目の強迫的な核信念を持っています。テーマは「私が犠牲を払わないと世界は壊れる」です。心の叫びは「私だけにやらせないでよ」でしょう。
丸屋真也師が語ってくれた例です。ある人は、「人々が私の言う通りにしなければ、彼らは私を愛していないんだ」という信念が心の深いところにあります。教会での人間関係、それから夫婦、親子の人間関係。あるいは友人、職場での人間関係の中に、これが根底にあります。この人は時々「だれも私のことを愛してくれない。教会でもだれも愛してくれない」と言います。それを聞いた人は、腫物にもさわるようにいたわってあげるでしょう。でも、操られている感じがして、心から愛する気にはなれません。確かに、この人物は非常な孤独感を抱えています。でも、それを人から求めようとすると、空回りしてしまいます。この人の核信念は二番目の適合的なものです。しかし、「あなたが私をちゃんと扱わなければならない」You must treat me well.はとても非現実的なものと言えます。おそらくこの人は、子どものときに両親から深く愛されたことがなかったのかもしれません。条件付きであったり、「良い子はそんなことをしないのよ」と操りを受けて育ったのかもしれません。大人になって、その愛を他者から求めたらどうなるでしょう?そうするとその人の世界は、教会の人はみんな自分を愛していない、受け入れていないということになります。何をしても非常に難しくなります。それは夫婦の間における人間関係もそうでなるでしょう。この人のテーマは「愛の欠乏症」であり、「私を愛してよ」というのが心の叫びでしょう。でも、本当は愛されているのです。その基準があまりのも高いので、他の人は満たすことができないのです。もし、深い所で、神さまの愛に触れたら満足すると思うのですが、長い道のりかもしれません。でも、人からの愛を諦めて、神さまの愛にすがるのはどうでしょう?
最後はコントロール、支配の問題です。私がある時(2023.6)、テレビを見ていたら、全仏テニスの女子ダブルスの試合で、加藤選手が失格を食らいました。彼女が不要なボールをコート外に打ったら、ボール・ガールの後頭部に当たってしまい、彼女はショックで泣き出しました。それを見ていた、相手の二人は「わざとじゃないのか。血を流しているじゃないか」と猛抗議しました。主審は客観的に判断して「警告」に済ませました。しかし、相手の二人はなおも主審に激しく抗議しました。その後、競技団体の責任者がやってきて、彼女のは危険行為であり、失格処分にしました。彼は現場を見ていないのに厳罰を下したのです。「不当な処分だ」と1万人位の人たちから批判コメントが寄せられたそうです。加藤選手が「不当な扱い」を受けているのを見て、私の心がぐらぐらしました。私の場合は、父親が家を正しく治めていませんでした。父はあまり働かず、酒を飲んでは母や私たちを殴りました。兄弟たちが互いに喧嘩していても、止めようともしませんでした。末っ子の私は家にいても安心できません。機能不全な家で育ったので、守りがなかったのです。破れた世界観で学校に行ったらどうなるでしょう?先生や学友が私を不当に扱ってくれます。しかし解放を受けた後、神さまが世界を治めていること、神さまが正しくさばいてくれること、イエス様が私を弁護してくれること…私には守りがあると知り、世界が安定しました。私は三番目の支配的な確信念の犠牲者であり、テーマは「不当な扱い」でした。心の叫びは「私は悪くない、正しくさばいてくれ」でした。
このように、ゆがんだ核信念というのは、非現実的であります。「私はうまくやらなければならない」と思っても、うまくいかない時もあります。「あなたが私をちゃんと扱わなければならない」と思っても、だれもが大切に扱ってくれるわけではありません。「この世界が楽でなければならない」と思っても、この世界は不条理に満ちています。いつとばっちりを受けるか分かりません。しかし、一人ひとりは、未解決なテーマを抱えて、どこかで過剰反応を繰り返しながら生きているのです。でも、「これが私の性分です」と諦めてはいけません。天国に行くまで全くゼロにはなりませんが、多少反応はしても、軽く済ませることは可能です。解決はこれまでの古い核信念を新しい核信念に取り換えるということです。改善ではなく、交換です。
3.癒しと解放
核信念はどこから来ているのでしょうか?最終的には、神から離れた人間の、心の不完全さから来るものです。「心」というのが、旧約聖書と新約聖書にはいくつかあるかというと200回あります。ローマ12章2節に「心の一新によって自分を変えなさい」とあります。聖書の「心」の機能を見ると、考えたり、記憶したり、決意したりする、それが行動に向かっていきます。大体、聖書で「心」と訳している働きは、現代の心理学で言っている「心」とわりと一致しているようです。「心」で考えて行動していくものですが、これはまさに心理的、精神的なものです。心の奥深く、核信念は、「心の一新」によって自分を変えるところです。「心の一新」は新生ではありません。新生はキリストを信じて霊的に新しく生まれることです。パウロはローマ1章から11章までは、教理的なことを話しています。しかし、ローマ12章からそれを適用していくクリスチャン生活のことを教えています。つまり、既に救われた者が、「心mindが一新されなければならない」ということです。私たちは霊的に生まれ変わっても、心は生まれ変わっていません。心、つまり魂は聖化されていくようになっています。きょうのアプローチは心の奥底にある、「核信念」という心理学的なものです。核信念は神から離れて生じた、ゆがんだ考えの塊です。そのところから、ゆがんだ考え、感情、そして行動が起こってくるのです。行動を変えてもダメ、感情を変えてもダメ、考えを変えてもダメ。考えの源である「核信念」を変えなければならないのです。しかし、このような心理学的なアプローチと聖書とどうマッチすれば良いのでしょうか?
結論的に言いますと、核信念は変えるのではなく、新らたなものと取り換えるというのが正確です。たとえでいうと、パソコンのハードデスクを取り換えるということです。これまで使っていたのが古くなったので、新しいSSDに取り換えるのです。そうすると、作業能率もアップします。これまでの核信念は、神さま抜きの自分が生き延びるために考えたものです。だから、同じようなことで過剰反応して、息苦しい生活をしてしまうのです。ちょっとぐらい考え方を変えた位ではだめです。別のものと交換するしかありません。パソコンのようにデータを移すことも必要です。しかし、大事なのは核信念を、神中心の聖書的な考えに取り換えるのです。でも、取り換えるというのは聖書のどこに書いてあるのでしょうか?ローマ12:2「むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」とあります。キングジェームス訳は“but be transformed by the renewing of your mind” be transformedは変革させられるという意味です。このことばは、さなぎが蝶に変貌するギリシャ語のメタモルフォーセーから来ています。全く、姿変わりするということです。もう一か所はⅡコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」です。キングジェームス訳は ”in Crist he is a new creation: the old things passed away,”となっています。直訳すると「キリストにあって新しい被造物になり、古いものは過ぎ去った」ということです。二つのことばから、核信念は変えるのではなく、新らたなものと取り換えるというのが妥当でしょう。私たちはパソコンにたとえると、古いハードデスクと、新しいSSDと二つ持っているのです。古いハードデスクはこれまでの核信念であり、ゾンビみたいな存在です。でも、新しいSSDは神中心の聖書的な考えです。あなたはどっちのデスクにつなぎますか?死んだはずの核信念ゾンビを復活させてはいけません。新しい神中心の聖書的な考えで生きるのです。
でも、過剰反応を起こしていた核信念を新しいものに取り換えるというのは、エネルギーが必要です。では、どうしたらこれまでの核信念(古い世界観)を新しいものに変えることができるのでしょうか?李光雨師は「心の叫び」を完了させると言います。現在、過剰反応をしているのは、過去において世界が壊れた原点から来ているのです。多くの場合、あなたが子供だったときです。第二のポイントで3つの例をあげました。何でも引き受けてしまう姉妹の心の叫びは「私だけにやらせないでよ」でした。中学生のとき、鬱のお母さんと二人の弟を面倒見なければなりませんでした。そのとき、「私が犠牲を払わないと世界は壊れる」というテーマが生じたのです。
イエス様は彼女のことばに何と答えるでしょう?「あなたが負わなくて良い」と言うでしょう。イザヤ書には「私があなたを背負う」と書いてあります。その次は「誰も、私のことを愛してくれない」と愛を求めて生きている人がいました。おそらく、その人は子どものとき両親から無条件の愛を受けなかったのでしょう。「私を愛してよ」が心の叫びです。「人から愛されたい」がテーマかもしれません。この人は人間の愛ではなく、神の愛が必要なのです。エレミヤ書には「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」とあります。永遠の愛とは変わらない愛です。この愛を心にいただいて生きるのです。最後はコントロールです。私の父は家を正しく治めていなかったので、守りがありませんでした。だから学校でも「不当な扱い」を拾い集めてしまったのです。心の叫びは「私は悪くない。正しくさばいてよ」でした。ローマ8:31「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」。主は私の盾、私の砦、私の避けどころです。
このように、これまでの核信念を捨てて、神中心の聖書的な考えに取り換えるのです。でも、取り換えるときはエネルギーが必要です。取り換えるエネルギーとなるのは、イエス様と出会って、心の叫びを完了していただくことです。インドネシアの話です。荒くれの男性が、先生から祈ってもらいました。昔のある夜の出来事が見えました。父親が酒を飲んで暴れており、子どもの彼はおびえていました。家じゅうちらかり、窓ガラスも割れていました。そちらの方に目を向けると、割れたガラスの向こうからイエス様が家の中を覗いておられました。とても悲しそうな顔をしていました。彼の目とイエス様の目が合いました。彼は肩を震わせて号泣しました。顔を上げたら、穏やかな顔になっていました。過去の事実を変えることはできません。でも、その時の子供をイエス様が癒してくださいました。心の叫びを聞いてくださいました。心の叫びが完了できたら、これまでの核信念を捨てて、神中心の聖書的な考えに取り換えることができます。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」神さまから新しい心をいただきましょう。