ある時、テレビを見ていたら、年金で暮らしている74歳の男性のレポート番組がありました。年金が一カ月で5万5千円、都営住宅が4,500円です。電気、水道、光熱費を払うと食費が3万円あるかないかです。その番組で彼は、レトルトのタイ・カレーを食べていましたが「思ったよりもまずい」と漏らしていました。定年退職後は厳しいと思いますが、少しでも働いて「生き延びる」以上の生活ができないものかと考えました。きょうは、「働くことの意義」と題して、聖書から4つのポイントでメッセージさせていただきます。
1.生産する
箴言には「怠け者」に対する戒めが、先ほど読んだ箇所を含めて、10か所以上あります。箴言の記者は「怠け者よ、蟻のところへ行って、蟻から学べ…蟻は夏のうち食物を確保し、刈り入れ時に食料を集める」と言っています。私は働くということは、生産をすることだと思います。また、怠けると言うのは、働かないでお金だけを儲けようとする考えです。ギャンブルをしたり、人をだましたり、一攫千金のもうけ話に乗ってはいけません。風俗とか夜の商売ではなく、生産的なものが良いと思います。その点、日本人はどこの国の人たちよりも勤勉だと言われています。でも、天地を造られた神さまを知らないので、勤勉なわりには豊かな生活を送っていません。働くことは良いことなのですが、働くことの意義を分かっている人は少ないと思います。戦後の日本は、「生き延びるために」一生懸命働き、「食っていけるか」が人生のテーマでした。しかし、今の若者は、稼いだお金を遊びに使い、明日のことは考えていません。年金も納めていないかもしれません。まるで、キリギリスのような生き方をしています。働くために最も重要な考えは、創造者なる神様のもとで生産活動をするということです。神さまが地球の資源、太陽の光、生物、そして人間を造られたのです。神さまは、ただ、造られただけではありません、今も天地万物を保持しておられるのです。マタイ6章には「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」と書かれています。根本的には、神さまが私たちを養っていて下さるのです。でも、私たちにもなすべき責任があり、それは労働によって何かを生産するということです。
労働の始まりは創世記に書いてありますが、それはエデンの園からでした。創世記2:15「神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた」とあり、園の管理を任せられていました。また、アダムは神さまの代わりに、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥に名前をつけました。肉体労働だけではなく、頭脳労働もあったということです。ですから、「生産する」と一口に言っても、物を生産するものから、加工したり、右から左へ物流したり、アドバイザーやコンサルタントも含まれるのではないかと思います。現在の若者にとって、なりたい職業のナンバーワンは、ユーチューバーだそうです。確かにコマーシャル料を得られるかもしれませんが、生産的な仕事ではないような気がします。私は安直なお金儲けを求めるのではなく、まず、種まきをし、投資をすることが聖書的だと思います。創世記を見ると、イサクは飢饉のときも種を蒔きました。創世記26:12「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。【主】は彼を祝福された。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった」とあります。また、マタイ25章の「タラントのたとえ」では、忠実な二人のことが書かれています。マタイ25:16,17「五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた」とあります。商売をするという英語はtradeであり、「売買する、取引する、物々交換をする」という意味のことばです。元手を失うかもしれません。でも、主人である神さまから預けられた元手を用いて、商売をして儲けました。商売は重要な労働であろうと思います。私は朝と夕散歩をしていますが、野菜をトラックに積んで販売している老夫婦を見かけます。最近は女性一人で頑張っています。また、自家製のパンを販売している人もいます。自転車でお豆腐を売っている人もたまに見かけます。彼らは小売店のようにじっと待っているのではなく、外に出て商売をしているのです。
たまに働かないでウロウロしている人を見かけます。働けそうな年齢なのに、生活保護を受けて暮らしている人もいます。彼らは働くと働いた分のお金が差っ引かれるので、余計働かなくなります。障害とか、働けない何らかの事情があるのかもしれません。一見楽そうですが、生活保護は「生かさず、殺さず」の厳しい生活です。「働かざる者、食うべからず」と言われていますが、本当の意味はこうです。Ⅱテサロニケ3:10「あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。」パウロは「働きたくない者は食べるな」と言ったのであり、本当は働きたいけれど、何か問題があって働けない人のことを言っているのではありません。パウロは「あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいる」と注意しています。働いて食物を得るのは聖書的です。でも、食物を得るためだけに働くというのも問題です。労働は生産することであり、他の人のためにも役に立っているからです。何よりも神さまから与えられた力と能力を生かすために有意義なのです。
2.工夫する
勤勉で真面目なのは良いですが、神から与えられた知恵を用いる必要もあります。それは、工夫するということです。箴言6:6-8「怠け者よ、蟻のところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。」蟻は神から与えられた本能によって、相応しい時に食物を集め、冬に備えます。部屋に甘いものがあると、だんだん蟻が集まってきます。どうも、最初に見つけた蟻が、他の蟻に伝えているようです。しばらくたつと、蟻が床、壁、縁の下へと行列を作って運んでいるのを見るときがあります。「すごい知恵と連携だなー」と感心します。私たちは仕事においても、商売においても工夫が必要です。ラーメンでもそばでも、どうしたら売れるだろうか人々は必死に考えています。ただ、伝統を守るのではなく、いろんなところへ行って食べ歩き、味を研究しているわけです。教会も50年前と同じやり方で、礼拝を守っているところがたくさんあります。聖書はヘブル語やギリシャ語の釈義だけで満足してはいけません。今の時代、どのような神学が開かれているのか、聖霊の働きをキャッチしなければなりません。また、世の中の倫理や道徳に対しても、明確な答えを聖書から語るべきです。音楽やメッセージにおいても、工夫が必要です。私は『story brandを構築する』という本を読んで、メッセージの仕方を変えました。メッセージはブランドであり、顧客は会衆と言うことができます。主役はブランドであるメッセージではありません。主役は集まっている人であり、彼らが心からアーメンと言って、信仰を新たにすることが重要なのです。ですから、私はあるときから、情報量が少なくても、知的に欠けていても、会衆が納得する方を選びました。これが、説教者の知恵であり、工夫ではないかと思いました。教会は「自分たちが正しいのだから、お前らは聞きなさい」という殿様商売をしてきたような感じがします。
一番ダメなのは、国のせいにしたり、世の中のせいにして、自分やり方を変えない人です。私は『激レアさん連れて来て』というテレビ番組を観ています。飲食店を一人で切り盛りしていたおじいちゃんが急に倒れてしまいました。レシピもないので、二人の従業員も全く作り方が分かりません。ところが、女子大生のお孫さんだけが、お店の味を知っています。そのお孫さんがもう一人の友人と、お店を継続することになりました。しかし、味が違うということで、お客さんが全く来なくなりました。「それでは」ということで、これまでとは全く違うメニューを作りました。チャーハンの上に大きなハンバーグを乗せたもの、ご飯の上に山盛りの焼肉をのせたどんぶり・・・奇抜なものを作り、それによってV字逆転をしました。つまり、これまでの伝統を捨てて、若者が好むようなメニューにしたのです。ただ働くだけではなく、知恵と工夫が必要です。町工場が、宇宙船を作るような時代です。時代が悪い、世の中が悪いと自己憐憫に陥ってはいけません。神さまから与えられた知恵を用いるのです。箴言24:3,4「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によって、尊く好ましいあらゆる宝物で満たされる。」とあります。家とは人生であり、部屋とは生活の細部と考えられます。神さまから与えられた知恵をもって工夫するなら、仕事が祝され、商売が繁盛し、豊かな生活を送ることができるのです。
3.ニーズを満たす
ニーズを満たすというのは第一に、人々に対するものです。働き口を探してもなかなか、職にありつけない人たちがいます。仕事も自分の適性に全くあっていないのに、ハードなわりには賃金が低い場合があります。クビになりたくないので、雇用者の言いなりになって、労働者の権利も立場もない人もいます。本来は、両者は平等であるはずですが、受け身一方の労働者がいます。文句を言ったら、「辞めるか、お前が経営者になれ」と言われるかもしれません。もちろん、だれもが経営者になれる訳ではありません。しかし、労働者が何等かの技術や資格、専門知識を身に着け、必要とされる人物になったら良いのではないでしょうか?「雇ってくれる会社がない」というのではなく、自分から社会のニーズを満たすところを探した方が良いのではないでしょうか?世の中を見渡すと、国や会社が行き届いていないところがたくさんあります。隙間産業と言う、大企業が進出しない専門的で小規模な市場を開拓している人達もいます。別に小さく考えなくても良いですが、大会社に引けをとらない事業も可能かもしれません。雇ってくれる会社がないなら、自分から起業しても良いのではないでしょうか?最近は、ITで企業している人たちがたくさん出ています。ニーズを見つけて、そこに働き口を探すと言うのはどうでしょう?私は23歳で建設会社を辞めました。英語が好きなので、米軍キャンプや、貿易会社、英語事務で働けないかと探しました。ところが、工業高校卒なので、いくつか会社を回りましたが、相手にされませんでした。ところが、最後に厚木の小さな貿易会社に入ることができました。面接してくれた人がクリスチャンで、「ああ、私と同じような人が来たなー」と入れてくれたのです。その会社は家庭ごみで出た衣類を外国に輸出していました。ワイシャツが最も需要が高く、ワンピース、ズボン、下着、靴下、毛布…何でも送っていました。アフガニスタン、バングラディッシュ、インド、カンボジアが取引先でした。その当時は円が安かったので、商売が成り立ちました。私は英語ができる仕事なので、喜んで働きました。しかし、社長は結んだ契約を破棄し、高いところに売るように指示しました。「クリスチャンとして、それはできない」というと、「これが商売なんだ、文句言わないでやれ!」と言われました。半年は我慢しましたが、二人とも辞めました。ニーズを満たすと言いながら、お金も儲けなければならないので、難しいところがあります。
もう一つのニーズとは、神様からのニーズを満たすということです。これは、天職とも呼ばれています。最近、『富の大移動』というピーター・ワグナーの本を読みました。その本の主題は、「神さまが異邦人の富を教会の働きのために移動させる」というものです。その本にマニと言う人の証が載っていました。マニの家族は戦争で荒廃したイランを脱出し、イギリスで新しい人生を始めました。しかし、彼は16歳のとき、たった一人でアメリカに旅立ちました。父の仕送りで、彼はフロリダ大学の化学工学科に通いました。彼は21歳の学生のとき、妻が家を出て行き、無実の罪でアメリカ政府から訴えられました。彼はイスラム教徒でしたが、二人のクリスチャンから救いに導かれました。「イエス・キリストは主です」と叫んだとたん、神の平和に満たされ、奇跡的に問題が解決されました。彼は石油会社で働いていました。ある時、ジョン・オスティーン牧師の率いる教会に出席しました。見知らぬ女性が近づいてきて「あなたが教会に入ると、あなたのポケットからお金が落ちてきて、そのお金が教会を満たしているのが見えました」と言いました。それは神さまからの預言でした。長い話を短くすると、彼は会社で一生懸命、働いていましたが、儲けをピンハネされていました。主から「マニ、おまえにビジネスを始めてほしい。触媒のビジネスを立ち上げてほしい」と言われました。「石油精製用の化学触媒ですか?」彼はショックでした。触媒を販売する会社は世界に7、8社しかなく、顧客は巨大な石油会社(エクソン、シェブロン、シェルなど)です。技術的に複雑で、財務的なリスクも非常に高い産業です。彼は、「神様、無理です。私にはインフラもないし、製造の仕方も知りません。何百万ドルも投資する資金もありません。神様、それは不可能です!」と言いました。彼はその声を無視し、再婚し、別の会社を立ち上げて、年間25万ドルの収入を得ていました。それから7年たち、再び主の声がありました。「マニ、仕事を辞めて、触媒の会社を立ち上げなさい」。彼は「いやです、主よ。私の人生は良いものです。変えたくありません」と答えました。聖霊は「マニ、今日、あなたの収入の10パーセントを私に差し出すとしたら、どれだけのお金を私に与えることができますか?」と聞きました。「主よ、年間3万ドル(400万円)ほどです」と答えました。「年間3万ドルで何ができるだろう?私の御国にもっと投資してほしい」と言われました。彼は世界の国々、特にイランの人々にキリストの福音を伝えたいという思いが強くなり、もっと大きな影響を与えたいと思うようになりました。まもなく、彼の触媒事業に50万ドル投資してくれる人が現れました。銀行も数百万ドル融資をしてくれました。試練もありましたが、2001年12月、起業からちょうど2年目、注文が殺到しはじめました。12月だけで200万ドルの売上がありました。12年後、26人の従業員で3,000万ドル規模の会社になりました。化学・石油精製の世界では、彼らは認知され、尊敬を集めています。彼はいつも、顧客にも競合他社にも「すべては神の栄光のために」と伝えています。神さまは、神の国を地上に広げるために、経済的に祝福して用いたいのです。どうぞ、ただお金を得るために働くのではなく、神さまのニーズを満たすために働きましょう。
4.賜物を用いる
昔、建設現場で働いているとき「仕事は忍の一字である(忍耐あるのみ)」と教えられました。もし、仕事は耐えるだけのものであるなら、人生の大半を失うことになるでしょう。一番、理想的なのは、自分の才能や賜物が仕事に役立つことではないでしょうか?仕事が楽しくて趣味の延長であるなら理想的ですが、「忍耐あるのみ」というのは寂しいです。中学を卒業し、高校進学のとき「適正検査」というのがありました。しかし、ほとんどは偏差値によって、どこの高校に入学するか決められます。担任の教師は「落ちないように、安全な高校に入るように」勧める訳です。大体、中学生が自分にどんな才能や賜物があるか分かりません。親や兄弟、だれかにあこがれで将来の仕事を決めるところがあります。もし、私が中学校のとき、イエス様を信じていたなら、すばらしい青春時代を送れたことだろうと思います。25歳クリスチャンになってはじめて、人生の生きる目的とか、自分の賜物に目覚めたところがあります。もし、神のご計画を知ることができたなら、お金をかせいで、好きな事をするだけの人生ではないと思います。お金をかせぐことも大切ですが、自分の才能や賜物にあった仕事に就くことがもっと重要だと思います。人間はある程度、勉強や訓練によって仕事を選べますが、神さまが与えた賜物にはかないません。第一に生まれた時に何等かの才能が与えられます。第二は聖霊によって新生したときにも霊的賜物が与えられるからです。好きであるとか、やっても疲れないとか、他の人も認める、結果が伴うということで、自分の賜物がわかります。賜物はギフトとも訳され、神さまがその人に与えた固有のものです。神さまはその賜物を用いて、神の栄光を現すように召しておられるのです。
もちろん現実の会社やその他の業務では、100%神の賜物が役に立つということはないでしょう。50%あれば良い方だと思います。あとの50%は肉の力、努力や頑張りかもしれません。この世において、働いて食を得るというのは、並大抵のことではないからです。でも、生き延びるための人生ではなく、自分の賜物を大いに発揮できる仕事を選ぶべきだと信じます。その方が、効率が良く、自分も楽しいからです。昔、越路吹雪という歌手がいましたが、そのマネージャーが岩谷時子さんでした。彼女はフランスのシャンソンを訳すだけではなく、歌詞を作る能力がありました。そんなに派手な人でないのに、どうしてあんなロマンチックな歌詞ができるのだろうと不思議に思いました。彼女には才能があったのです。歌や芸術を志す人は、親から「それで食っていけると思うのか」と反対されるでしょう。でも、夢を捨てないで、せめてそれに関係した職業に就くべきです。年をとってから、「あのままやっていれば良かった」と後悔しない方が良いと思います。もちろん、仕事の他に、好きなことや趣味も必要です。申し上げたいのは、「食っていけるか、食っていけないか」という価値観を超越することが大事だと思うのです。ボランティアを励んでいる人たちがたくさんおられますが、決して、お金のためではないと思います。甘いかもしれませんが、お金以上のものがそこにはあるのでしょう。お金を第一にすると、目がふさがれ、見るべきものが見えなくなるのではないかと思います。
いずれは年をとって、退職して、第一線を退かなければならなくなります。冒頭で申し上げた74歳の年金暮らしの男性のことを忘れられません。私ももうすぐですが、どうしたら良いか考えさせられました。現代では「リサイクル」とか「サスティナブル」などという言葉をよく聞きます。「死ぬまで現役」というと、後継者に道を譲らない人みたいに思われます。しかし、私は天に召される日まで、リタイアすべきではないと思います。たとえお金にならなくても、これまで培ってきた経験、スキル、賜物を再利用すべきだと思います。私は英語が好きであり、今、日本語に訳されていないキリスト教の本を翻訳しています。販売したら罪になりますが、勉強のため使うなら問題はないでしょう。また、この口もありますので、無牧の教会でメッセージすることもできます。聖霊による癒しや預言も必要とあらば与えられるでしょう。区役所ではリタイアした職人たちで、区役所内の建物を保守管理しているそうです。NPOやボランティアで奉仕することもできます。これまで受けてきた神さまからの恵みを還元する気持ちでやったら良いと思います。ボケ防止で一番良いのは、頭を使い、働くことです。もし、体が動かなくなったら「とりなしの祈り」があります。当教会の山崎長老さんは病気のため喉を切開し、言葉を発することができませんでした。召されるまで9カ月間、無言で祈っていました。天に召されるまで労働はあります。