イエス様は開口一番「神の国が近づいた」と言われました。このことばに対して、人々はどのよう思うのでしょうか?私はマルコによる福音書1章と他の聖書の箇所を見ながら検討しました。そこには、三種類の間違った態度があることを発見しました。それらの態度は、現代の私たちにもあてはまるのではないかと思います。
1.神の国は不必要
イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「神の国」というのは「神の支配」という意味です。また、「悔い改める」というのは、方向転換のことであり、change of mind「思いを変える」という意味です。言い換えると、「思いを変えて、神の国に入りなさい」ということです。まず、第一は「そんなの不必要である。私はいらない」と思う人がいます。マタイ3章にはその人たちのことが書かれています。マタイ3:7「ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。『まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。』」彼らはユダヤ教徒であり、自分たちはアブラハムの子孫であると自負していました。だから、すでに救われているので、悔い改める必要もなく、イエスが言わんとしている神の国も不要であると思っていました。現代においても、「神の国は私には必要ありません」と言う人たちがいます。マタイによる福音書は「天の御国」とありますので、「天国なんて不要です。私は地上のユートピアを信じています」と言うかもしれません。神の国も天国も同じなのですが、「そんなのいらない」ということです。
パリサイ人は律法を守っていたので「自分は正しい」と誇っていました。一方、サドカイ人は宗教的な人たちであり、儀式を守っていたので「自分はきよい」と誇っていました。イエス様はマタイ9章で「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と言われました。私はイエス様を信じた直後、友だちに伝道しました。そのとき、「私たち人間には罪がある」と言いました。すると友達は「俺を馬鹿にしているんだろう」と言い返しました。その後、何も言えませんでした。確かに「あなたには罪がある」とか、「罪人だ」と言われると反発を食らうでしょう?でも、罪が分からないと救いもないということは明らかです。教会でも「罪を悔い改めなさい」と言います。しかし、その意味は「犯した罪をお詫びしなさい」という意味ではありません。「自分には罪があることを認め、神に立ち返る」という意味です。パリサイ人、律法学者、そしてサドカイ人らは「自分は正しい、罪がない」と考えていたのです。だから、イエス様が説く「神の国も不要です。結構です」と思ったのです。私たちは罪とは何かそもそもの意味を知る必要があります。創世記3章を見ると分かりますが、アダムとエバは食べてはならない木から食べて、目が開かれました。その木とは「善悪を知る木」でした。その木から食べるということは、神から独立し、自分で善悪を判断して生きるということです。同時にアダムとエバは命の源である神さまから離れたので、善を行う力もなくなりました。創世記3章から、罪とは神さまからの分離であり、自分で善悪を判断して生きるということが分かります。
そのように考えるとたとえユダヤ人でなくても、私たちは生まれたときからそのように生きているのではないでしょうか?最初、善悪の判断は両親から教えられ、学校や社会生活の中で学んでいきます。世の中に出て、法律を犯したら罰が与えられることを体験的に知ります。パウロはローマ7章で「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。」と嘆いています。さんざん、家庭や学校や社会で「こういうことは罪ですよ。こういうことをしたら罰せられますよ」と教えられても、全く効果がないのはそのためです。それよりも、どうしたらバレないか、悪知恵を働かせます。いくら法律を厳しくしても、犯罪は減るどころか、ますます増えています。その理由は、人間には悪を避け、善を行うという力がないからです。罪を悔い改めるというのは、「自分には力がないので、神さまに立ち返り、神さまにつながります」という意味なのです。同時に、善悪の基準も自分ではなく、この世でもなく、神さまにゆだねる必要もあります。アダムとエバは罪を犯す前に、神とともに歩んでいました。善悪の判断を神さまからお聞きして、生きていたということです。言い換えると、神さまに従うことが善であり、神さまに逆らうことが悪であるということです。イエス様は人間の代表として生きられました。ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」ヨハネ5:30「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。」イエス様は私たちの模範です。
「神の国」の本当の意味は「神の王国」であり、神が王として治めるところです。私たちは神の国に入るためには、王である神さまに従う必要があります。「自分は正しい、自分は神を必要としない」と言う人は入れません。神の国は王様がたった一人です。もう一人の王様はいらないのです。神さまの主権を認め、自分はへりくだる必要があります。生まれつきの人間は、「神はいない」「私は神を信じない」とかと言います。それは王なる神を認めないことであり、高慢の現れです。その人はイエス様がおっしゃる神の国に入ることはできません、締め出されてしまいます。神の国は永遠であり、幸福に満ちています。必要なものは何でも神さまから与えられます。でも、「神の国は不必要です」と言う人は、この世において、既に神さまからさばきを受けています。自分で善悪を判断し、自分の力で生きるので、混乱と争いが絶えません。平安もなく、守りもなく、明日はどうなるか分からない人生です。死んだ後は、全く希望がありません。暗い陰府で暮らし、神のさばきを受けるのをただ待つだけです。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、おっしゃいました。神の国は死んでから入るのではありません。生きているうちに、キリストの福音を信じて入るのです。永遠のいのちと幸福は、信じた時点から始まります。
2.神の国には不十分
神の国に入ろうとしない第二のタイプは、自分は不十分である、行いが足りないと考える人です。ある人はもっと聖書を勉強してから、ある人はもっと良い行いをしてから、ある人は悪い行いを改めてから信じると言うかもしれません。残念ながら、その日は、永遠にやってきません。私は田舎で育ったので、たまに水路にはまって泥だらけになるときがありました。秋田弁では「かっぱとった」と言います。靴もズボンにも真っ黒な泥が付いています。その時、どうしたでしょうか?井戸の側に行って、水をかけるのです。ちなみに、私が子供のころは水道がありませんでした。もし、私が水をかけないで、泥だけを拭いとることができるでしょうか?無理です。それよりも、ズボンを脱いで、足を洗うべきです。罪も同じように、イエス様が全部十字架で罪の代価を払ってくださいました。ですから、罪あるままで、汚れたままで、イエス様のところへ行けば良いのです。しかし、神から離れて生きてきた人間は、自分の行いに頼ろうとします。そういう人には、神の律法がぴったりです。行いで救われる道は、律法を守ることだからです。
ある時、金持ちの青年役員がイエス様のところにやってきました。その時、「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。彼は良い行いによって、永遠のいのちがいただけると思っていたのです。イエス様は「殺してはならない。盗んではならない。父と母を敬え」という戒めを示しました。すると彼は「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」と胸を張って答えました。イエス様は彼を見つめ、いつくしんで「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい」と言われました。彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。多くの財産を持っていたからです。イエス様はだれにもこのようなことは言いません。彼は行いによって救いを得ようとしたので、イエス様は行いの道を示したのです。律法では、あなたの隣人を愛しなさいと言われています。律法は「全財産を売りはらって、貧しい人たちに与えなさい。それが隣人を愛することだ」と要求するでしょう。しかし、彼はそれができませんでした。律法が与えられた目的は私たちがそれを守るためではありません。律法の目的は「あなたには罪があります」と教え、キリストに連れて行くことです。
この世の宗教はすべて、良い行いや修行をして、神さまに近づくように要求します。たくさん祈り、たくさん捧げ、善行を積みます。でもどれくらいで良いのか、基準がありません。「いや、もっと、もっと必要だ」と要求するでしょう。犯した罪や過失に対しても、償いを要求するでしょう。しかし、どれくらいやったら赦されるのでしょうか?その基準がありません。「一生!」と言われるかもしれません。子どもを事故や病気で死なせたお母さんが、神社やお寺に行くと、そのように要求されるかもしれません。残念ながら、いくら償いをしても罪責感は消えません。体についた泥を自分の手で拭うのと同じだからです。罪責はイエス様が流された血でしか洗い流すことはできません。この世ではとりかえしのつかない罪があるでしょう?しかし、神さまの前でとりかえしのつかない罪はありません。なぜなら、イエス様が尊い血を流して、罪を贖ってくださったからです。何度も言いますが、罪あるまま、汚れたまま神さまのところへ行けば良いのです。ある人は「神さまが半分贖い、私が半分償いましょう」と考えるかもしれません。ローマ・カトリックの考えはそうです。神さまの赦しも確かにありますが、人間の側の善行や償いも必要です。全くタダということはないのです。いくらか、人間も犠牲を払う必要があるのです。何かを我慢したり、何かを絶ったり、何かをささげたりしなければなりません。しかし、それは神さまを冒瀆する行為としか言えません。神さまから1万タラント、現代で言うと6000億円を赦してもらった人がいたとします。その人が神さまのところに来て「悪いので、私にも100万円支払わせて下さい」と言ったらどうでしょう?日本ではお茶を濁すと言うかもしれませんが、それくらいでは済まされません。そんなのは神の赦しを馬鹿にする行為としか言えません。私たちは、お返しなんかできないくらいの多大な罪を赦されたのですから。神さまと人間が共同して、救いを完成するのではありません。神さまの方が、私たちが救われる手立てを全部してくださったのです。私たちは何もしなくて良いのです。ただ、受けるだけで良いのです。
「自分は不十分である。まだ足りない」というのは、これまでそのように生きてきたからです。私たちは何かもらったらお返しをするように、育てられてきました。1万円に対しては、その半分を返すというきまりも世の中にあるのでしょうか?キリスト教会でも結婚式や葬儀で、返礼というのがあるのかもしれません。未信者に対してはあるかもしれませんが、クリスチャン同志には不要です。それでは、せっかく与えた人が報われないからです。私も何か返してもらうと、気が重くなります。私たちがこのように神さまを礼拝し、献金をささげているのは、キリストの贖いに対する返礼ではありません。なぜなら、とうてい返すことのできない罪の赦しを受けているので、無理なんです。私たちがここでしていることは、ただ、神さまのあわれみに感謝するだけです。一方的な恵みに対して、神さまを喜び、感謝をささげているのです。もし、何か良いことをしたり、何かをささげることができたなら、それは恵みです。エペソ2:10「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」神さまが私たちが良い行いをするために、造って下さったのです。しかも、その良い行いも神さまがあらかじめ備えてくださったので、自分を誇ることはできません。「自分は不十分である。まだ足りない」という声は、悪魔の声であり、自分の間違った考えから来るものです。ローマ8:7,8「なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。」私たちは肉によって神さまを喜ばせなくても良いのです。そうではなく、「アバ、父よ」と神の子どもとして、安心し、神さまを喜べば良いのです。父なる神さまは私たちがイエス様を信じた、その一点だけで、もう満足しておられるのです。良い行いはおまけであり、必要であれば神さまが備えて下さいます。
3.神の国には不適格
神の国に入ろうとしない第三のタイプは、自分は不適格である、神の国に相応しくないと考える人です。当時、ユダヤ人の会堂から締め出されていた人たちとは、取税人や遊女、罪人たちでした。この場合、罪人というのは、律法を全く守ろうとしない人たちのことです。取税人は税金を徴収するローマの手下として私服を肥やしていました。遊女は体を売って商売していたので姦淫の女と呼ばれていました。しかし、イエス様は彼らの客となり、一緒に食事をしました。取税人マタイがイエス様の弟子として召された直後のことです。マタイ9:10「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。」と書かれています。イエス様がエルサレムの神殿で、祭司長や長老たちのこのように言われました。マタイ21:31,32「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。」その当時、最も神の国にふさわしいと思われた人たちは神に仕える宗教家たちでした。ところが、神の国に真っ先に入ったのは、取税人たちや遊女たちだったのです。何という皮肉でしょう。彼らはユダヤ人から最も神の国に相応しくない人たちだと考えられていたからです。
ある時、NHKの朝ドラを見たことがあります。その人は高知から出て来た植物学を目指す若者でした。ある日、だれかの紹介状を持って東大の研究室に入ってきました。アメリカ帰りの教授が、who are you?と言いました。若者は「私は小学校を中退した者ですが、珍しい植物をぜひ見せたい」と鞄を空けようとしました。助教授と学生たちは「やめろ!自分たちはいくつかの学校を経て、東大に入学したんだ。ここに来るなら学校で勉強し、合格してから来い」と言いました。不思議なことに、アメリカ帰りの教授は彼の熱意と才能を認めて、研究室の出入りを許可してくれました。確かに彼は助教授が言うように「最高学府の東大」には相応しくない人物でしたが、教授の不思議な取り計らいに感動しました。その時、私は自分のことを考えました。8人兄弟の7番目に生まれ、学校生活では劣等感のかたまりでした。工業高校を出て、何年か働いた後、神さまにお仕えしたいと直接献身しました。神学校で学び、通信でやっと大学を卒業できました。私の頭の中には「不適格」という負い目がいつもありました。しかし、パウロはⅠコリント1章でこう言っています。「しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです(1:27-28)。神さまの不思議な取り計らいとしか言えません。神さまはあえて、取るに足りない者や見下されている者、無に等しい者を選ばれたからです。
この世には「私は神の国に相応しくない、不適格である」と思っている人がいるでしょう。そういう人は教会に入ろうとしません。教会はインテリで、上流階級の人が行くところだと考えているからです。確かに明治以降、日本に入って来たプロテスタントは、インテリ層に伝道しました。内村鑑三、新渡戸稲造、矢内原忠男たちはみな高学歴です。その時、建てられたミッションスクールはキリスト教と西洋の学問を教えるためにありました。今でも、簡単に入れないミッションスクールがたくさんあります。ちなみに、私は東京聖書学院に入りましたが、テストはほとんどできていませんでした。洗礼を受けて1年もたっていなかったので、「ローマ書のアウトラインを書け」と言われても、ローマ書が何章まであるか分かりませんでした。私が小さな貿易会社に入っているとき、上司が私を教会のバイブルスクールに誘ってくれました。東林間バプテスト教会でキャンプの人たちの中に、日本人が混じっている教会でした。同じ日本人なのに、彼らは英語であいさつし、アメリカかぶれして、気持ち悪いと思いました。その年の12月、クリスマスのディナー・パーティに誘われました。定刻より遅れて到着し、ドアの前で立ち尽くしてしまいました。そのドアがとても分厚く、重そうに思えました。中に入らず、Uターンして帰って来ました。自分にはふさわしくないと思ったからです。私はこの会堂を設計したとき、ドアをガラス張りにしたのは、そのためです。
それはともかく、「私は神の国に相応しくない、不適格である」と思っている人に朗報、グッドニュースがあります。この世の宗教は人間が神のところに上る宗教です。ところが、イエス・キリストは天から下ってこられたのです。下る宗教と下らない宗教があります。ピリピ2章には驚くべきことが書かれています。ピリピ2:6-8「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」イエス様は天の栄光を捨てて、馬小屋にお生まれになられました。十字架につけられ、この世のだれよりも、卑しくなられました。それは、惨めで、どん底にいるような人たちを救うためです。イエス様は陰府にまで下り、陰府に住む人たちを天にまで引き上げてくださったことがあります。なんという恵みでしょう。イエス様は黙示録3章で「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」とお声をかけておられます。イエス様は死んだ者を復活させてくださるお方です。イザヤ書61章には「心の傷ついた者を癒やすため、【主】はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、【主】の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために」と書かれています。イエス様はあなたを神の子の身分へと回復してくださいます。あなたはどこか知らない馬の骨ではありません。イエス様は、あなたを王子、王女として宮殿に住まわせてくださるのです。神の国へようこそ。