2026.4.26「預言を正しく用いる Ⅰコリント14:1-5」

今から40年くらい前に、個人に対する預言が流行りました。そのため、教会の中が荒れてしまい、牧師たちも傷つきました。そして、預言をすることを禁止した教会も多くありました。しかし、再び、預言のブームが訪れ、今度は歯止めがききません。なぜなら、インターネットでどこからも情報が入って来るからです。昔は「預言はない」とか、「預言は危険である」と言うことができましたが、そんなことを言うと「先生、遅れている」と馬鹿にされるでしょう。聖書には預言のことがはっきり記されています。問題は預言を正しく用いる必要があるということです。

1.預言の賜物とは何か?

 パウロは、Ⅰコリント13章で「御霊の賜物よりも、それを支える愛が重要なのです」と教えました。その後、「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」(Ⅰコリント14:1)と言ったのです。福音派の教会はⅠコリント12章と14章を読まないで、13章だけを教えるので問題が出てくるのです。聖書をそのまま読むならば、「聖霊の賜物は今日も存在しており、特に預言の賜物が必要ですよ」とだれでも分かります。パウロはⅠコリント14章で異言と比較しながら、預言の重要性を説いています。Ⅰコリント14:3-4「しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」「成長させる」というギリシャ語は、オイコドメオーであり、「建てる、高める、向上させる」という意味があります。英語ではedifyであり「教導する、建て上げる」という意味です。一言で言うと、異言は自分自身を建て上げるが、預言は教会を建て上げるということです。つまり、預言は教会全体のために有益であるということです。

Ⅰコリント14章で言われている「預言」は、Ⅰコリント12章に出てくる「御霊の賜物による預言」です。これは聖霊の賜物なので、旧約聖書の預言者たちが語った預言とは違います。旧約時代は神の霊が人々の中にありませんでしたので、預言者から神のことばを聞くしかありませんでした。神の預言者は神の霊によって「主はこう言われます」と神のことばを代弁しました。ですから、これは100%神からのものであり、必ず実現しました。しかし、中には偽預言者たちもいました。申命記13章には「その預言者あるいは夢見る者は殺されなければならない」と書かれています。クリス・ヴァロットン師は旧約時代の預言者と新約時代の預言者は全く違うと言っています。その理由は、イエス・キリストがすべての罪を贖って下さったので、私たちは怒りを受ける対象ではなくなったからです。さらに素晴らしいことに、ペンテコステ以来、特別な人でなくても、だれでも預言できると言われています。使徒2:17,18「終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する」。だれでも預言者になれるわけではありませんが、神の霊によってだれでも預言ができると約束されています。今は、終わりの日の最後の時であり、聖霊の賜物が開花するときでもあります。

 でも、パウロが言う「預言」とは何なのでしょうか?Ⅰコリント12章には9つの聖霊の賜物がありますが、預言は異言と同じで、霊的コミュニケーションをもたらします。言い換えると、聖霊によって湧き出てくるものです。口を開くと勝手に出てくることばです。使徒の働きを見ますと、上から聖霊を受けた人たちが、勝手にしゃべっているシーンを何か所も見ることができます。例えば使徒19章では「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした」とあります。福音派の教会は、「それは初代教会の特別な現象であり、今はない」みたいなことを言いますが、教会の長い歴史を見ると、いつでも、どこでも存在することが分かります。特に、新しく福音が伝えられる場所においては、顕著に現れるようです。しかし、ある教団のように「異言や預言が必ず伴わなければ、聖霊のバプテスマとは言えない」と神学のようにしてはいけません。これは聖霊の賜物であり、聖霊が主権をとっておられるので、私たちが「こうでなければいけない」と神さまに注文をつけてはならないのです。そうでないと人為的になり、聖霊を四角い箱に詰め込んで、いわゆる宗教になってしまいます。とにかく、預言は異言と同じで、霊的コミュニケーションをもたらします。預言は教会を建て上げ、異言は個人を建て上げるのですから、これらを使わない手はありません。もし、教会に力がなくて貧弱であるなら、聖霊の賜物を用いていないと言っても過言ではありません。

 私がはじめて預言を発したのは2005年頃、インドネシアのエディレオ師が来られた時です。そのころ、ブラックゴスペルで多くの方が救われたので、エディレオ師のセミナーに出かけました。北海道の札幌にも「追っかけ」で行ったことがあります。そこで、エディレオ師がⅠコリント2章を開いて、預言には三種類あると教えてくれました。第一は霊の目です。これは、絵が見えるということです。静止画像や動いている絵もあります。第二は霊の耳です。これは、1つあるいは2つのことばです。1つ発すると2つ目が出て来て、さらに3つ目が出てきます。元来、預言は「泡」という意味があるので、泡のようにことばga出てきます。最初、勇気を出して1つ目のことばを発することです。当人が無理して解き明かしをしなくても、聞く人には分かることがあります。第三は霊の印象です。何か違和感を覚えたり、怒りを感じるかもしれません。そのときは、「こういうことはありませんか」と聞くと、もっとはっきりしてくることがあります。そのセミナーでは、お互いに、そういうことをやりました。全く、見当違いのこともありましたが、聖霊様に心を開くという不思議な体験でした。一見、危ない宗教のように見えますから、このような公の集会ではなさらず、安全な小グループから始める方が良いでしょう。パウロがコリント14章で勧めているのは、20名前後の小さな集会であろうと想像できます。

 預言の賜物はあります。しかし、刃物のように正しく用いれば便利ですが、勝手に振り回すと人々を傷つけてしまいます。みなさんの家には、包丁とかナイフがあるでしょう。「危ないので、うちでは包丁やナイフは使いません」という人はいないでしょう。何でもそうですが、使いこなして、自分のものとすることが重要です。そのためには、訓練や指導が必要です。

2.預言で注意すべきこと

 第一に預言の賜物は絶対に正しいということではありません。ある人が「預言の精度は20%から80%の範囲だろう」と言っていました。私たちは賜物による預言は、旧約聖書の預言と違うことを知る必要があります。モーセやエレミヤ、イザヤは神の霊によって語った預言者たちです。新約の時代にも預言者はおりますが、預言の賜物はクリスチャンに与えられている「神のことば」です。聖書は霊感された神のことばであり間違いはありません。しかし、聖霊によって与えられた預言は、不完全であることを知る必要があります。不完全だからこそ、パウロは「二人か三人が語り、他の者たちはそれを吟味しなさい」(Ⅰコリント14:29)と命じています。ですから、預言する人は旧約聖書の預言者たちのように「主はこう言われます」とか「神はこう言われます」という言い方は避けなければなりません。もし、主がそう言われるのだったら、絶対、従わなければならないからです。今から40年前の人たちは、そういう言い方でやったので、混乱を招きました。私が聖契神学校に通っていた頃、「主の十字架クリスチャンセンター」から10名位、入学してきました。みんな、そのような口調で預言をするものですから、神学校が混乱しました。それで、学校側は彼らに出て行ってもらうように願い、彼ら自身が預言者学校を開くようになりました。そこで学んでいたクリスチャンに聞きましたが、完全にカルト化しているということでした。牧師や牧師夫人が預言したことが神からの預言なので、必ず服従しなければならなかったのです。預言を受けた人は、日本全国、海外まで伝道に出かけ、そこで教会を開くように言われました。でも、一人も信者が与えられず、精神的におかしくなった働き人もたくさんいました。預言は大変力ある賜物なので、預言によって信徒をコントロールしてしまう危険性があります。現代は預言者たちが預言しても、使徒たちがそれを吟味し、バランスを取るようにしています。つまり、預言者と使徒は互いに補い合う、コンビでなければならないのです。

第二は預言の目的は人を建て上げることであり、さばきではないということです。初心者が犯す間違いは、「あなたはこうです」と、その人の短所や欠点をズバリあげることです。既にその人は自分の足りなさを十分知っているので、それを他の人から言われなくても分かっているのです。そういう預言は賜物がなくてもできます。本当の神からの預言は、土の中に埋まっている金を掘り当ててあげることです。神さまの計画はとても深いものであり、表面的には分かりません。でも、聖霊による預言は、その人に隠されている宝を見つけてあげることができます。ある教会でとても幼稚な兄弟がいたそうです。預言者が来て、彼に預言したところ「あなたには日曜学校で子どもたちに仕える賜物があります」と言ったそうです。御霊の賜物の預言の特徴は、励まし、慰め、確認であります。その人の中にも御霊がおられますので、すでに語っておられるのです。私たちがその人のために預言すると、「ああ、やっぱりそうですか。神さまは私のことをご存じだったのですね」という答えがよく帰って来ます。本人が全く、考えていなかったことを預言されたなら要注意です。逆に、その人が望むとおりの預言をするのも要注意です。その人にくっついているファミリア・スピリットが自分好みの預言を引き出す場合があるからです。

 第三は、その預言が聖書的であるかということです。もし、聖書が教えていることと、矛盾するものであれば、「それは怪しい」と言わざるを得ません。ですから、神からの預言をしたいと思う人は、聖書を本当に読む人でなければなりません。また、自分で聖書を読んで祈っていないのに、「私に預言してください」というのも問題です。なぜなら、聖書に神のみこころのほとんどが記されているからです。賜物による預言は、どちらかと言うと「その人の個人の問題」を扱っています。本来は自分が神さまに祈って、神さまから聞くべきなのです。この場合、預言は補助的なものであり、本人が神さまから既に聞いていることの確認なのです。極端に言うと、預言がなくても、自分で聖書を読んで、自分で神さまから聞けば良いのです。ここまで言うと、きょうの説教は全く不要になってしまいます。私はいろんな集会に出かけて、預言を受けたことがあります。大和カルバリーにブラジルから預言者が来られ、祈ってもらったら倒れました。そのとき、「あなたが整えられたら、もっと多くの人が救われます」と言われました。「あたっているなー」と思いました。預言する人が、聖書をどうして読む必要があるかというと、聖書のみことばが示されるからです。その人にふさわしいみことばがピンポイントに与えられたら、なんとすばらしいでしょう。

 第四は、謙遜さが必要だということです。自分の預言が絶対正しいと思ってはいけません。パウロは「二人か三人が語り、他の者たちはそれを吟味しなさい」(Ⅰコリント14:29)と命じています。また、Ⅰコリント12:32,33「預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。神は混乱の神ではなく、平和の神なのです」とあります。何故、預言が教会に分裂や混乱を引き起こしてしまうのでしょうか?それは預言する者が高慢であるためです。40年くらい前に、個人に対する預言が流行りました。そのとき、多くの牧師たちは預言を信じませんでした。説教こそが預言であると言った牧師もいます。そうすると、預言を学んできた信徒は、「うちの牧師は預言のことをちっともわかっていない」と裁きます。牧師にもプライドがあるので、そういわれると「預言は危険なので、教会内では行わないように」と禁止します。そうすると、預言に目覚めた信徒たちが教会を去って行くことになります。では、どうしたら良いのでしょうか?神さまは地方教会の権威を牧師に与えました。牧師が「だめだ」と言ったら、従うしかありません。しかし、その牧師のためにとりなし、その時を待つのです。必ず、預言が必要になるときがきます。今、再び預言が注目されましたが、牧師が高慢のゆえに学んでいないため信徒を追い出しています。本当は牧師自身「今の時代はどうなのか?」ということを海外の本やインターネットからでも、学ぶ必要があるのです。今は回復の時代であるからです。

 預言の賜物は用いれば用いるほど、鋭くなります。確かに失敗もあるでしょうが、それを乗り越えたなら、神さまの啓示のすばらしさに驚き、主の御名をあがめるでしょう。パウロは「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」と言いました。

3.預言の重要性

 なぜ、それほど預言が重要なのでしょうか?伝統的な教会では、「講壇からの牧師の説教で十分ではないか」と言うでしょう。神学校では聖書の釈義や組織神学を学ぶでしょうが、聖霊の賜物について学び、それを実践するということはほとんどないでしょう。それでは、書かれた神のことばである聖書の領域を越えることはできません。聖書は書かれた神のことばです。しかし、預言は神さまが今、語っていることばです。そこには聖書以外のことや、将来のことも含まれます。パウロはこのように祈っています。エペソ1:17-19「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」神さまは私たちにもっと知ってもらいたいことがあるのです。だから、パウロは「栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈っているのです。神さまはこれまで隠されていたことを、私たちのために開示したいと願っておられるのです。ですから、「聖書以外のことは語らないでください」と目と耳をふさいではいけません。これまで偉大なリバイバリストや神学者たちが、聖書からたくさんの真理を解き明かしてきました。それはそれで、すばらしい遺産ではありますが、過去の遺産にとどまってはいけません。神さまには、もっと、もっと教えたいことがあるからです。

 では、なぜ神さまはご自身の思いを「預言」というかたちで教えたいのでしょうか?旧約聖書では神さまが直接語るということはめったになく、預言者を通して語られました。彼らは「主はこう言われます」と民の前で語りました。新約聖書では御子イエスが「私はこう言います」と直接的に語りました。だから、イエス様も預言者と呼ばれています。神さまは何も言わず、黙って、したいことをなされば良いのに、あえて預言をしてから実行するのはなぜでしょうか?アモス書にすばらしいみことばがあります。アモス3:7,8「まことに、【神】である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。獅子が吼える。だれが恐れないでいられよう。【神】である主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」神さまは地上のすべての人に預言のことばを与えたいと願っています。そして、神さまは、預言者たちに明らかにしない限り、何もなさらないのです。言い換えると、神さまはあらかじめ、ご自分がなさることを知らせてから、事を行うということです。エゼキエル37章にありますが、主はエゼキエルに「これらの骨に預言せよ」と言いました。エゼキエルがそのように預言すると、骨と骨がつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上を覆いました。しかし、死んだままでした。主は「息に預言せよ。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹き付けて、彼らを生き返らせよ」と言いました。エゼキエルが命じられたとおり預言すると彼らが生き返り、自分の足で立ちました。このように預言のことばを私たちが発すると奇跡や癒しが起こるのです。

ミカエル・メイデン著『天は何と言っているか』に、このように書かれていました。「残念ながら、多くの牧師が預言的なことを信用せず、その結果、単なる教師と管理者になっています。このような牧師は、神との関係や神の道に対する理解度によってしか、教会の人々を高みに導くことができないという問題があります。」福音書を見ますと、イエス様は預言や知識のことば、知恵のことばをたくさん用いています。サマリヤの女性が心を開いたのは、「五人の夫がいたが、今いる人はあなたの夫ではない」と言い当てたときです。彼女は水がめをそこに残し、町へ行って、自分がキリストと出会ったことを証しました。それの結果、「多くの人が信じた」と聖書に書かれています。木の上で隠れていた取税人ザアカイに対して、イエス様はこう言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。私は今日、あなたの家に泊まることにしているから」。彼は急いで、降りて来て、喜んでイエス様を迎えました。イエス様はそのとき、預言と知識のことばを用いられたに違いありません。ナタナエルが「ナザレから何か良いものでもでるだろか」とピリポの言うこと否定しました。でも、イエス様が「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました」と言いました。ナタナエルは「先生、あなたは神の子です」と答えました。なぜでしょう?自分がいちじくの木で、いつも祈っているのを、イエス様がご存じだったからです。預言や知識のことばを発すると、とたんに人々の心が開かれることが分かります。

私は神学校で個人伝道やその他の伝道について学びました。しかし、「預言や知識のことばを使ったらとても効果的である」などと教えられませんでした。牧師になってから、特別伝道集会、コンサート、英会話伝道、映画伝道…なんでもやりました。セルチャーチでは関係作り伝道、もてなし伝道を学びました。でも、それらはイエス様の伝道方法ではありません。イエス様は預言と知識のことばをはじめ聖霊の賜物によって行っていました。だから、大勢の人たちが救われたのです。私たちは聖書のやり方に立ち返るべきです。パウロはⅠコリント14章後半でこう述べています。「しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、心の秘密があらわにされます。こうして、『神が確かにあなたがたの中におられる』と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。」エディレオ師がインドネシアのセル集会について証をしていたことがあります。あるとき、その集会に麻薬の密売人がもぐりこんでいました。一人の人が「袋」が見えますと言いました。別の人が「中身は良くないものです」と言いました。三人目の人が「早く、それを捨てないとひどい目にあうでしょう」と言いました。麻薬の密売人は「どうして私のことがわかったのですかー」と叫んで、神を恐れ、悔い改めたそうです。預言は必ずしも罪をあばくためではありませんが、このように伝道への道を加速させます。神さまは多くの人たちを救いたいと願っておられます。人間関係を作ってから福音を伝えるのは基本ですが時間がかかります。しかし、預言や知識の言葉を使うなら、一挙に距離が縮まり伝道しやすくなります。神さまは皆さんに預言の賜物を用いるように願っておられます。