2026.4.19「霊性について考える ガラテヤ5:24,6:14」

 

ひところキリスト教会において「霊性」ということが話題にされたことがありました。私は聖霊の賜物を強調する牧師なので、「霊性」という意味を、今もって分からないところがあります。しかし、安定したクリスチャンは「霊性を求める人」ではないかと思います。きょうは、私なりに、霊性を求める人の特徴を4つあげたいと思います。つまりそれは、安定したクリスチャン像です。

1.心がオープンな人

 霊性を求める人の第一の特徴は、心がオープンな人です。心がオープンな人とは、言い換えると誠実な人です。心を閉ざしているのは、真実が暴かれるのを恐れているからでしょう。そして、うわべを宗教的なもので覆っています。イエス様の時代、パリサイ人や律法学者たちがいました。うわべはとても宗教的でしたが、心は貪欲や汚れでいっぱいでした。一般庶民と接しているときは、信仰深く見えます。ところが、イエス様にお会いすると、内側にあるものがばーっと出てきます。福音書には、宗教家たちが、きよいイエス様に対して反抗するシーンがたくさん出てきます。私は牧師としていろんな人に会いますが、一番わかるのは、心がオープンな人と、心を閉ざしている人です。クリスチャンの場合は、ほとんどの人は心がオープンです。なぜなら、キリストによって罪が赦されて、神との平和を得ているからです。十字架の血潮によって、すべての罪が赦されているので、だれから訴えられても構いません。だから、そんなに身構えなくても良いのです。時たま「あなたにこういう罪がありますよ」と指摘してくれる親切な人がいます。その時は「むっと」きますが、「ああ、私の罪は赦されており、神さまから完全に受け入れられえているのだから大丈夫だ」という平安な気持ちになります。

 キリスト教会において、特にこの礼拝においてはごまかしがききません。ここではみんなが、神さまに向かっています。しかし、10%しか心を開いていない人から、ほぼ100%開いている人まで様々です。説教者自身が30%しか心を開いていないならどうでしょう?おそらく、会衆は神さまからの油注ぎを感じることができないでしょう。ですから、私はできるだけオープンにし、飾らないようにしています。でも、不思議なものでキリスト教会は「宗教的」であることが好まれます。宗教というのはとても便利であり、自分の心の中がどうであれ、儀式や讃美歌や祈りによって、信仰深く見えるところがあります。牧師はガウンを着て、言葉使いも普段とは違います。礼拝は神さまとお会いする聖なる時間なので、乱暴な言葉や粗野な振る舞いはしません。ある教会においては、礼拝が終わったとたん、急に人間らしくなるところがあります。それまでは宗教的な長い顔をしていたのに、急に血が通った明るい人になります。私はキリスト教という宗教をやってはいけないと心から思います。私たちと共におられるキリストを表現すべきです。そのためには、私たちの中におられるキリストの御霊があふれるようにすべきです。罪も汚れも取り除いてくださったキリストの血潮を仰ぐなら、オープンな人になることができます。

 心をオープンにしていると、嫌な思いをしたり、傷つくこともあります。でも、こっちが心を開いていていないと、人と交わることもできないし、伝道することもできません。本当に強い人、本当に愛のある人は、相手の出方次第に合わせることなく、先んじてオープンな人です。私たちは、最初は、「この人は、どうかな?」と思う人にも、誠実を示すべきです。もし、相手が誠実で返してくれるなら、その関係を深めていくことができます。しかし、誠実を偽りや支配や打算で返してくる人もいないわけではありません。これまで、いっぱい傷を受けて来た人はこちらの誠実を返してくれません。そういう場合は、オープンな心を加減する知恵が必要です。「ああ、この人には80%で、この人には50%で、この人には20%でお付き合いしましょう」ということになるのです。これはバウンダリーの法則であり、自分を守るために必要です。中には、こちらが謙遜に出ると、コントロールしてくる人もいるからです。エリヤ・ハウスでは「愛の反対は何か?」という問いに対して「コントロールだ」と答えていました。私もその人の自由を認め、その人も私の自由を認めてくれる接し方が健全なのです。イエス様が「あなたの隣人を愛しなさい」と言われましたが、このようなオープンな心が必要なのだと思います。

 

2.自分の人生を生きている人

 霊性を求める人の第二の特徴は、自分の人生を生きている人です。日本人の文化は画一的であり、人と違ったことをすると笑われます。おそらく、日本の学校ほど制服が好きな国民はいないと思います。学生服だけではなく、部活のユニホームやぶらさげているバッグまで一緒です。全部揃えたならものすごくお金がかかるのではないかと心配します。では、学校を卒業したら自由になるかというとそうでもありません。流行から遅れないように、必死に雑誌やインターネットを見ます。はっきり言いますが、外面よりも中身の方がもっと重要だと思います。中身とは自分の考えであり、人格であり、何のために生きているかであります。自分の人生を生きている人は、外見や外聞が二の次、三の次になります。容姿端麗で、流行にマッチしていても、自分の人生を生きていない人をみるとがっかりします。そういうメッキはすぐはがれてしまうのですから、もっと目的のあることに時間とお金をかけたら良いと思います。では、クリスチャンはどうでしょう?せっかくこの世とこの時代がから救われたのに、教会に来てまで人と比較するのでしょうか?確かに霊的で魅力のあるクリスチャンがいるかもしれません。しかし、あなたはあなたなのです。創世記1章に「種類ごとに造られた」という表現が度々出てきます。だから、私たちは顔かたちだけではなく、好みや、生き方がそれぞれ違っていて良いのです。子どもの賛美に「バラはバラで、すみれはすみれ。わしはわしで、すずめはすずめ」というのがあります。すばらしい賛美だと思います。

残念ですが、日本のクリスチャンはまとまりすぎて特徴がありません。罪を犯さず、きよいかもしれませんが、自分の人生を生きていないクリスチャンがいます。なぜでしょう?それは教会で使う日本語が良くないからです。今から約10年前に発見した言葉があります。それは、ジョエル・オースチンが使っていた、divine destinyです。直訳すると「神の運命」です。神さまにはそれぞれに計画があり、それに向かって生きるということです。その運命を達成できるように、神さまは必要な資源、助け手、賜物を与えておられるということです。でも、そういうことばが聖書にあるのでしょうか?あります。エペソ1:11「またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。」欽定訳聖書はpredestineという言葉が使われています。predestineというのは、「予定する、運命づける」という意味です。destineというのは、「あらかじ定める、運命づける」という動詞です。destineの名詞形がdestinyなのです。でも、日本語の「運命」はとても暗いイメージがあります。「さだめ」や「宿命」は、「仏教用語でいうところの因縁因果であり、生まれながらに定められた変えることのできない資質のこと」だそうです。演歌はそういうテーマに満ちています。それは英語のfateであり「不可避なこと」という意味です。しかし、神の運命、divine destinyは存在します。教会ではその代わり、摂理ということばを使いますが、ダイナミックさに欠けます。とても受け身的であり、神の運命を全うするというニュアンスに欠けます。ですから、神の運命の方が良いのです。

パウロはピリピ3章でこう述べています。ピリピ3:13-14「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」アーメン。一人ひとりに達成すべき目標があるのです。それは神の運命と言っても構いません。神さまがあなたに成し遂げてもらいたいことがあるのです。私は預言者から預言を受けることがとても助けになると思います。本当の預言者は人の罪を暴く人ではありません。それは旧約聖書の時代で終わり告げました。新約の預言者は、泥の中に埋まっている金を掘り当てる人です。本当は神様が救われる前からも語っておられたのです。「あなたはこのために生きるんだ。こういう人になるんだ」と語られていたのです。でも、社会という、この世の泥の中に埋まっていたのです。この世の価値観は「一人前の生活をして、ちゃんと食べていけるか」ということです。しかし、それはこの世だけの人生であり、永遠とはあまり関係がありません。私たちをご自分のかたちに創造し、キリストによって救ってくださった神さまは、永遠につながる神の運命、divine destinyを一人一人に用意しておられるのです。そのことを発見して、自分の人生を生きている人は安定しているクリスチャンです。

 

3.自分の弱さを受け入れている人

 霊性を求める人の第三の特徴は、自分の弱さを受け入れている人です。私は8人兄弟の7番目で生まれました。父はあまり働かず酒を飲んでは母や私たち子どもを殴りました。いろんな事情はあったかもしれませんが、自分の人生がうまくいかないことの八つ当たりだと思います。今でいうと機能不全な家庭で育ちました。長男は父に反抗し、次男は父に迎合し、三男は怒りをためて生きており、四男の私は怖くて逃げて隠れました。土木の建設現場で働いていたとき、あえて困難な場所に自分を投じていることに気づきました。逃げないで、なんとか頑張るのは、昔できなかったことを取り返すためではなかったかと思います。学校生活においても、あえて不当な扱いを受けるようなところに身を置いたのではないかと思います。無意識に何とか乗り越えるためではなかったかと思います。クリスチャンになってから、神さまが私の盾であり、要塞であり、弁護人であることが分かりました。信仰をもって50年近くたちますので、だいぶ癒されたと思います。でも、不当な扱いを受けると、やっぱり悲しくなります。これまで、説教の予定を受けていたのにキャンセルされたことが二度あります。牧師としてなっていないとさばかれたこともあります。エリヤ・ハウス、丸屋真也師、いろんなカウンセリングを学びました。李光雨師からもカウンセリングを受けました。でも、恐れやすい弱さは最後まで残ったような気がします。恐れやすいので、怒るのかもしれません。弱い犬ほどよく吠えるということでしょう。でも、「私の生まれや育ちのゆえに、そうなんだなー」と思います。もちろん、かなりの癒しと回復を得ましたが、天国に行くまで弱さはあると思います。

 パウロがイエス様から言われたことばです。Ⅱコリント12:9「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」私は癒しを信じる牧師なので、「とげの問題」を扱っている、このみことばがあまり好きではありませんでした。パウロは特別な人なので、とげが必要だったのだと思います。でも、長い信仰生活を送っていると、「罪はきよめられても、弱さは残るかもしれない」と思えるようになりました。「クリスチャンであったら、完全にきよめられ、弱さなんか聖霊によって克服できる」と言いたいところです。でも、自分の弱さを認めないクリスチャンは、対抗的であり、何か頑張っている感じがします。頑張ると言うのは、自分の弱さを克服しようと力んでいるということです。でも、そういうクリスチャンは安定感がありません。「私は知性と意思は自信はありますが、感情がどうも」と言う人がいるかもしれません。人間はホルモンのバランスとか、体調の変化で、どうしても感情が揺らぐ時があると思います。自分は大丈夫なのですが、周りの人の悪感情を拾ってしまう感受性の強い人もいます。本当はそういう人と接しなければ良いのですが、仕事柄そういう訳にもいかない人がいます。そういう人は「切り離し」とか「バウンダリー」を学ぶ必要があるでしょう。とにかく、この世に生きていると、そういう困難を受けるということです。でも、自分の弱さを知っている人は、「ああ、そうなんだな」と自分を客観的に見ることができます。そして、たとえ嵐の中にいても、神さまの御手の中にあることを信仰によって受け止めることができます。船がどんなに嵐の中にあっても、錨を下ろしていればどんなに揺れても大丈夫です。私たちにとって船の錨とは、主イエス・キリストです。イエス様が世の終わりまで、私たちと共におられるので、平安です。

 

4.キリストと共に死んでいる人

 霊性を求める人の第四の特徴は、キリストと共に死んでいる人です。クリスチャンであるなら、死んでも天国に行けるという信仰はあるでしょう。不思議なことに、イエス様を信じると死ぬことをあまり恐れなくなります。もちろん死ぬのは怖いですが、死んでも大丈夫というどこかに安心感があります。それは、すでに永遠のいのちを内側にいただいているからです。でも、問題なのは私たちの魂です。魂はこの世のいのちであり、プシケーと呼ばれています。魂の性質は「自分が大事だ、自分だけは死にたくない」という自己保全です。あるとき、イエス様は弟子たちにこう言われました。マタイ16:24,25それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」ここで言われている「自分のいのち」は「自分の魂」という意味です。イエス様が自分の十字架を負って、従って来なさい」という本当の意味は、「自分に死ね」ということです。イエス様が教える道は、自己保全の道ではなく、自己否定の道です。しかし、私たちは自分が可愛いし、自分だけは死にたくないのです。その証拠に、集合写真を見たとき、だれを最初に見るでしょうか?もし、自分が目をつぶっていたなら、その写真を買うでしょうか?買いません。今はデジタルなので、すぐ消去するでしょう。自己保全は神さまが与えた本能なのです。魂は自己保全のかたまりであり、救われてからも残ります。ですから、自分の魂に死ぬというのは並大抵なことではないのです。しかし、本当に安定しているクリスチャンは、自分に死んでいる人です。死んでいたなら、何をされても痛くもかゆくもありません。なまじっか生きているから、腹を立てたり、仕返しをしたくなるのです。でも、どうしたら自分に死ねるのでしょうか?私たちが自分の魂に死ぬ方法が2つあります。

 一つは「キリストと共に死んでいる」ということを認めることです。ローマ6:6「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」アダムにつく古い人は、神よりも自分を愛する自己保全の私です。決して、神のためとか、人のために生きようなどとは思いません。自分が第一、自分が一番可愛いのです。しかし、それは罪ではなく、魂が持っている本能です。この本能があるから人はご飯を食べ、生き延びようとするのです。でも、それだけだと他の動物と同じです。生き延びるための人生は、クリスチャンの人生でありません。ウェストミンスター小教理問答にあるように、私たちは永遠に神を喜び、神の栄光を現すために生きているのです。ですから、古い自分である魂に一度死ぬ必要があります。でも、自分では死ねません。ありがたいことに、2,000年前イエスさまが十字架につかれたとき、私たちの古い人も一緒に十字架につけられていたのです。だれでも、キリストにあるなら、キリストの死にあずかり、キリストの復活にもあずかることになります。そうです。私たちはキリストと共に死んで、キリストと共によみがえった存在なのです。古い自分は一度死んでおり、今は新しい存在になっているのです。

 しかし、これで終わりではありません。ウォッチマン・ニーによると、自分が十字架に主体的につくことが残されていると言います。教会はローマ6:6「古い人は既に死んだ」で、終わりになるところがありますが、それでは不十分なのです。矛盾しているようですが、自分から十字架につくという面が残されているのです。ガラテヤ5:24「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」とあります。もう一か所、ガラテヤ6:14「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」これら2つの聖句から分かるように、パウロは自分から十字架につけたことが分かります。日々、十字架を負って従うということは、第一に、古い自分が十字架につけられたことを認めることです。また、日々、十字架を負って従うということは、第二に、自分の肉や情欲やこの世を十字架につけると言うことです。なぜなら、天国に行くまで肉や情欲やこの世が存在するからです。よく、ホーリネス系の教会では「古い自分が十字架にたく殺され、きよめられた」と言います。確かに、そういう経験は必要です。でも、それで安心してはいけません。私たちは日々、自分を十字架につける必要があるのです。なぜなら、肉や情欲やこの世の誘惑が存在するからです。このように自分の魂に死んでいる人は、安定しているクリスチャンです。安定しているクリスチャンは十字架を負っている人です。ローマの時代、十字架は自分がかかる十字架を負いました。イエス様もゴルゴタまで、ご自分の十字架を負って、その十字架につけられて死なれました。同じようにイエス様に従う者たちも、自分の十字架を負ってイエス様に従います。その十字架は自分がかかるための十字架です。日々、その十字架を負うということは、毎日、いつでも自分に死ねるということです。口で言うのは優しいです。ぼーっとしていると、己が生きて来て、文句を言いたがります。まるでゾンビです。死んだはずの私が生きているのです。よく、首から十字架のネックレスをぶら下げている人がいます。おそらく、災いから守られるようにということなのでしょう。でも、そんな小さな十字架に自分をかけることはできません。ですから、本気にそれをしようとするなら、2メートル以上の十字架でなければなりません。実際、ミッション・バラバ、もとやくざのクリスチャンは十字架を負って日本を縦断したりします。私たちはそこまでする必要はありません。信仰によって、日々、目に見えない十字架を負ってイエス様に従うのです。

 船は安定を保つために3つの物を持っています。1つは錨です。錨を降ろすと流されることはありません。2つ目は外の水を中に入れないということです。船は厚い鋼板によって水圧に耐えています。外から水を入れない限りは浮いています。第三はスタイビリティ、船には復元力があるということです。キリストと共に死んで、キリスト共に生きるのです。