2025.10.12「祭典的な礼拝 ヨハネ4:20-24」

きょうは礼拝、特にこのように行っている「公の礼拝」について学びたいと思います。日本中の教会のほとんどはこの日曜日、公の礼拝を捧げています。いろんな形式がありますが、三位一体の神様を礼拝していることには変わり有りません。今日は、少し改まって、私たちが毎週このように礼拝をささげていますが、この意味とか、目的、根拠みたいなものを共に考えたいと思います。普段はあまり考えずに、1つ1つのことをこなしていますが、形式的になったり、宗教的になったりします。イエス様が「御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます」と言っていますが、どのような意味なのでしょうか?

1.礼拝とは

礼拝を表すギリシャ語はプロスキュネオゥです。辞書によると「ペルシャ人が王の前に、またギリシャ人が神々の前に平伏して床や地、足または衣服の裾に接吻していたことから、跪いて(平伏して)崇拝するという意味です。バビロンのネブカドネツァル王は「自分が建てた金の像を拝め。平伏して拝まない者は、即刻、火の燃える炉に投げ込まれる」と言いました。しかし、三人のユダヤ人は「私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません」と断りました。三人はそのため、火の燃える炉の中に投げ込まれました。ところが、王は何の害もうけていない彼らを見て、彼らの神がまことの神であると言いました。なぜ、ユダヤ人が金の像を拝まなかったのでしょうか?それは十戒の第一戒と第二戒に、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。偶像を拝んではならない」とあるからです。ですから、まことのクリスチャンであるなら、キリストの神以外は、礼拝しないのです。ところが、日本は多神教であり、偶像の神を拝んでいます。神社やお寺に囲まれ、冠婚葬祭にも参加しなければなりません。そういう中で、まことの神しか礼拝しないというのはとても困難なことであります。新約聖書の時代はローマ皇帝が、主であり神でした。そのため紀元後300年までは、迫害の嵐を通過しなければなりませんでした。日本においてはどうでしょう?江戸時代260年間、キリスト教は邪宗門であり、約30万人のキリシタンが殉教しました。明治6年に禁教の高札が取り除かれましたが、日本人の心の中には、「キリスト教は邪教である」という考えが染みついています。現在はミッションスクールもあり、そういう考えは薄らいできましたが、「キリスト教は外国の宗教で、日本には日本の宗教がある」と思っているでしょう。そういう中で、日曜日の午前、このように教会堂に集まり、礼拝を捧げているというのは、珍しいことであり、普通のことではありません。

では、なぜ私たちは異教の国、日本において、わざわざイスラエルの神を拝まなければならないのでしょうか?第一は私たちの神は宇宙とこの世界の創造者であるからです。そのことを言っている啓示が聖書です。この啓示がイスラエルの人たちに臨んだのが旧約聖書です。その後、イエス・キリストが現れ、救いを全うしました。私たちが神を礼拝する第二の理由は、私たちを罪から贖なってくださったキリストの神を礼拝するのです。私たちはイスラエル人ではなく、異邦人ですが、私たちのところにも救いの招きがやってきたのです。今や全世界の人たちがキリストの神を礼拝しているのです。イエス様が「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます」と言われましたが、そのことが今、成就しているのです。キリスト教会は大きく分けて、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の2つに分かれています。プロテスタント教会はそれぞれの成り立ちや神学があり、礼拝形式もそれぞれ違います。しかし、共通して言えることは「御霊と真理によって父を礼拝する」ということです。新改訳2017年訳は「御霊と真理」となっていますが、他の訳は「霊」です。私は「霊」の方が良いと思います。なぜなら、その前に「神は霊ですから」と書かれているからです。私たち人間には霊がありますが、キリストを信じていない人は休眠状態です。しかし、キリストを信じると霊的に生まれ、神さまと交わることができるようになります。私たちのどこと神さまと交わるかというと、霊によって交わるのです。動物は霊がないので、神さまと交わることができません。「御霊」と訳したのは、聖霊の助けによって父を礼拝するという意味を含ませたのだと思います。もう1つの「真理によって」も難しいです。他の訳は「まこと」とか「真実」と訳しています。日本人は「心から」と言いますが、そういうことだと思います。でも、人間の心は結構いい加減であり、礼拝中も他のことを考えています。心配事があると「賛美も上の空、説教中も上の空」ということがないわけではありません。さきほど、霊を「御霊」と訳しました。それなら、真理は「キリスト」と訳しても良いのかもしれません。私たちはたとえ真実でなくても、キリストが真実だからです。ヘブル9章に「キリストの血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょう」と書かれています。私たちはキリストの血を意識して、きよい神さまのところに近づき、神を礼拝すべきなのです。私たちが神さまに近づくことができるのは賛美ではなく、キリストが流された血潮であると理解すべきです。そうするなら、たえず私たちの心がきよめられどんな状態でも、神を礼拝することができるのです。

もう1つ礼拝の意味を表すことばがあります。ローマ12:1「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」この礼拝がギリシャ語でラトリュオゥであり、「奉仕する、神に仕える、礼拝する」という意味です。英語ではserviceです。ちなみに、さきほど礼拝は英語で、worshipです。日曜日の礼拝は、二つ合わせて、worship serviceと言いますからとても良いと思います。旧約聖書では、祭司たちが民たちが持ってきた動物の生贄をささげることによって、神に仕えていました。今日で言うと、奏楽者、聖歌隊、牧師、その他の奉仕者がserviceという礼拝をささげている訳です。でも、このラトリュオゥは、日曜日の限られた時間だけではなく、私たちの家庭において、職場において、あらゆる活動において神と人々に仕えるという意味で実行されているのです。私たちはお金のためだけに働いているのではありません。私たちの時間や賜物、労働において神と人々に仕えるという礼拝をしていると考えるならすばらしいではないでしょうか?イエス様はマタイ25章で、「これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは私にしたのです」(マタイ25:40)と言われているからです。保育園の先生が、幼子たちに仕えているのは、お金のためだけではありません。そのことによって、神と人々に仕えるのであり、serviceという礼拝をしているのです。アーメン。

さて、「公の礼拝」に戻りたいと思いますが、日曜日のこの時間だけを礼拝と考えると、「公の礼拝」が非常に薄っぺらいものとなるということです。つまり、「月曜日から土曜日までの生活はどうでもよいのか?」ということです。アメリカなどでは、日曜日はきれいな服装、Sunday clothingを着て、いそいそと礼拝にでかけます。日曜日の礼拝を守っていれば、敬虔なクリスチャンであると認められています。しかし、神さまは日曜日だけではなく、月曜日から土曜日までもともにおられます。本当の礼拝は、この日曜日の限られた時間だけではなく、毎日が礼拝なのです。そして、日曜日のこの礼拝は、毎日の礼拝の頂点であるべきなのです。普段、神さまを礼拝している人は、この日曜日の礼拝がものすごくすばらしい時となるのです。では、普段、どのように神さまを礼拝しているのでしょうか?「デボーション」あるいはクワイェット・タイムQTというのが40年前から言われています。しかし、「密室の祈り」という言い方では、イエス様の時から言われています。つまり、神さまと一対一の交わりであり、礼拝です。みことばを読み、瞑想し、祈るということです。一日、15分もあれば可能です。神の前に静まる時を持つということです。しかし、礼拝は通勤中も仕事中も、どんなときでも可能です。「ハレルヤ!感謝します。主を礼拝します」と一寸、立ち止まり、30秒もあればできます。私は朝夕、散歩していますが、そのときも「ああ、主よ、感謝します」と礼拝しています。礼拝は神さまに感謝し、神さまをあがめることですから、寝ているときも可能なのです。私は過去のトラウマが浮かんできたとき、あるいは誘惑にあったとき、「ハレルヤ!主よ、感謝します」と礼拝します。そうすると、思いが切り替わります。このように、月曜日から土曜日まで、非公式的な礼拝をささげている人は、日曜日の公の礼拝も恵まれるのです。たとえ、その日の説教の内容が自分に合わなくても、感謝と賛美をささげることができます。

ビル・ジョンソンは「私たちは礼拝している神様と似たような者になる」と言っています。偶像の神様を礼拝していると、その偶像のような人になるということです。私たちの神様は愛であり、善であり、聖なるお方です。もし、この方を唯一まことの神としてあがめるなら、神さまの品性が私たちに刷り込まれていくということです。パウロはこう述べています。Ⅱコリント3:18「鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。」神さまは私たちから礼拝を受けたい独裁者ではありません。神さまご自身はだれから認められなくてもご自身で満足しています。しかし、ご自分と同じイメージで造られた人間と交わり、ご自身の品性と力を分け与えたいと願っておられるのです。礼拝は神さまから何かを得るためではなく、私たちを創り、罪を贖って下さった、愛の神さまを慕い求める行為なのです。

2.祭典的な礼拝

 後半は私たちがこのような形式で行っている「祭典的な礼拝」について説明したいと思います。最初申し上げましたが、キリスト教会はおもに二つに分かれています。ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会です。1517年マルチン・ルターによって宗教改革がなされてから、ローマ・カトリック教会から離脱していったのが、プロテスタント教会です。両者にはいろんな違いがありますが、きょうはこの礼拝について述べたいと思います。ローマ・カトリック教会は礼拝をミサと言います、ミサは本来「祭り」という意味です。しかし、彼らの礼拝はキリストの死による贖罪が今も継続しているという考えから来ています。そして、礼拝の中心が「聖体拝領」です。キリストの肉であるパンとキリストの血であるぶどう酒をいただき続けることによって、救いが保たれるということです。どういう訳か分かりませんが、ぶどう酒は司祭だけが代表していただき、信者はパンだけをいただきます。そのパンをいただくことによって、救いが保たれるのです。ですから、信者は一生、死ぬまで教会のミサに参加しなければなりません。さらには、罪の懺悔も償いのための奉仕も必要となります。洗礼前の罪は赦されたけれど、洗礼後の罪は懺悔と善い行いによって赦されると考えているからです。宗教改革者たちは、キリストの犠牲要素を取り除く、礼拝を捧げるようになりました。なぜなら、キリストの贖いは完了しているからです。カトリック教会の場合はキリストが十字架につけられていますが、私たちの場合はいません。なぜなら、よみがえられて今も生きているからです。私たちは犠牲の死よりも、死からよみがえられたキリストをあがめるような礼拝になっているのです。前者は「キリストは死なれた」というお葬式になりますが、後者は「キリストはよみがえられた」というお祭りになるのです。私たちはお祭りの礼拝をしているのです。

 ところで、プロテスタント教会にはローマ・カトリック教会から受け継いだ儀式や考えが残っています。聖職者の問題やこの礼拝であります。ジョン・カルヴァンはローマ・カトリックから来たものをすべて捨てようとしました。ですから、改革派教会ではオルガンも讃美歌もないところがあります。ルター派の教会はろうそくを灯したり、ガウンを着たりして、カトリック的な要素が含まれています。バプテスト教会は身分的なものを排除し、合理的な礼拝をしています。彼らは幼児洗礼もしないし、聖餐式を受けるとき信徒が聖壇の前に来ることもありません。近年はペンテコステ教会が現れ「ダビデの幕屋の回復」ということを言いました。使徒15章には、エルサレム会議のことが記されていますが、議長のヤコブが旧約聖書を引用し、「私は倒れているダビデの仮庵(幕屋)を再び建て直す」と預言しました。ダビデはレビ人を組分けして、1週間、毎日礼拝をするようにさせました。そして、聖歌隊だけではなく、あらゆる楽器を用いて礼拝をさせました。詩篇150篇には、角笛、琴、竪琴、タンバリン、シンバルが出てきます。また、詩篇では手を打ち鳴らし、叫び声をあげ、主の前で踊る姿もあります。普通の教会では、交読文で「手を打ち鳴らし、叫べ、踊れ」と読むだけです。もし、それを実際にやるなら、礼拝堂から追い出されてしまうでしょう。しかし、ペンテコステ系の教会はそれを実際、礼拝の中で行ったのです。現在、アフリカの各地でリバイバルが起こっていますが、まさしく、そのような状態で神さまを礼拝しているのです。彼らは礼拝の始まる1時間前から集まって、賛美し、踊っています。ですから、礼拝が始まるときはすっかり満たされており、どんなメッセージでも恵まれるのです。でも、それは聖書的なのでしょうか?イエス様は律法学者との会話の中で、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛しなさい」(マルコ12:33)と言われました。この「力」というのは、身体の力と考えることができます。つまり、心も魂も肉体においても主を愛するということです。ですから、主を礼拝するとき、手を打ち鳴らし、叫び、踊ることも有りだということです。私たちは日曜日そこまでしませんが、夜、礼拝があったらそのようにしたいと思っています。

 では、「祭典的礼拝」とはどういう意味なのでしょうか?祭典的礼拝と対になるのが、「儀式的礼拝」です。英語ではリタージカルと言いますが、礼拝式文に従って、プログラムが進行していきます。前奏、招詞、頌栄、交読文、信仰告白、賛美、聖書、祈祷、説教、祈祷、讃美歌、献金と感謝、報告、主の祈り、頌栄…15個くらいあります。信仰告白では、教団の信仰告白または使徒信条を読みます。当教会はほとんどしませんので、他の教会の礼拝に行ったときは、「ぽかん」としてしまうでしょう。そして、問題なのは起立と着席が交互にあるということです。私が当教会に赴任したときは、日本基督教団だったので、大体、このようにしました。しかし、讃美歌以外の歌を入れて、それをギターの伴奏で歌いました。大川牧師は教団から「ギターは飲み屋の楽器で、ドラムは悪魔の楽器だ」と批判されたそうです。私が驚いたのが、リック・ウォレン師が書いた『健康的な教会』の本です。最初のこの本が訳されたとき、「礼拝」の部分がカットされていました。なぜなら、日本の教会にはあまりにも過激だからです。数年後に「魅力的な礼拝へのかぎ」と小冊子になりました。この本から少し引用させていただきます。「音楽はしばしば、説教にはできない方法で人の心に触れることができる。理性の壁を通り抜け、直接、心にメッセージを届ける。音楽は有効な伝道の道具である。…教会で用いる音楽スタイルを決定するほど、重要であり、かつ議論を呼ぶものは他にあまりないだろう。教会が今後どのような人々をキリストに導けるか、また教会が成長していけるか否かは、音楽によって決まるといっても過言ではない。教会の音楽は、その教会が伝道の対象としている人々に合わせていくべきである。」

 聖書に「新しいぶどう酒はあたらしい革袋に」ということばがあります。古い革袋とは、伝統的な礼拝形式や讃美歌と言えます。現代の人たちは儀式的で、文語訳やスローなテンポは好みません。福音は変えることはできませんが、入れ物である礼拝形式や賛美を変えることは可能です。でも、これまで教会を守ってきた先輩たちは、「古いぶどう酒が良い」と言うのです。当教会は2,000年からブラックゴスペルが流行り、若い人たちがたくさん救われました。ゴスペルと教会で歌っている歌があまりにも違います。その当時、ワーシップソングとかプレイズという讃美歌と違う賛美が流行ってきました。2002年頃、チャンスとばかり、礼拝形式を単純化しました。週報には賛美、聖書朗読、説教、祈り、献金ぐらいしか書かれていません。そのころ、セルチャーチ・ムーブメントが起こり、小笠原牧師が「祭典的な礼拝」ということを打ち立てました。小笠原牧師の教会は聖協団というホーリネス系のとても保守的な教会です。その先生が、「うちは、これでやる」と改革しました。先生は「立ったり座ったりしていると、聖霊の流れを切ってしまう。山場であるメッセージに持っていくために賛美を切ってはいけない。そのためには、司会者ではなくワーシップ・リーダーを立てるべきだ」と言いました。先生のところには音楽の賜物のある人が少なくて、菅谷兄弟がワーシップ・リーダーに任命されました。全く、音楽的素養のない信徒です。しかし、不思議なように彼が導くと、主の臨在が増していくのです。たぶん、音程とかすこしズレていたのではないかと思いますが、そんなの関係なく、礼拝の場が高揚していきます。まさしく、聖霊が導いておられるのだと思いました。これまでは中野兄弟のギターで賛美を導いてきましたが、ゴスペルで救われた人たちをワーシップ・リーダーに立てました。彼らは心臓に毛が生えたようで、同じ歌詞を何度も繰り返すことができます。聖歌や讃美歌だと1節から4節まで順番に歌って終わりです。でも、ワーシップ・リーダーは奏楽者と合図を取りながら、何度も繰り返すのです。やっぱり、賜物と度胸がなければできないと思いました。

 結論を申し上げます。儀式的な礼拝であろうと、祭典的な礼拝であろうと、御霊と真理によって礼拝をささげれば良いのです。父なる神は、礼拝の方法ではなく、ご自分を礼拝する者たちを求めておられるからです。インドネシアやアフリカは部族ごとに救われます。これまでは、異教の神様に踊りと供え物をささげていました。しかし、天地を創られた神と罪から贖って下さったキリストを礼拝するようになりました。彼らは一週間、踊りと歌を練習します。そして、日曜日、公の礼拝のときは、力の限り踊りと歌とを捧げます。彼らの顔は真剣そのものです。そして、自分たちのところでとれた動物や果物、穀物をかごに載せます。ある村で、そのような礼拝がささげられていました。一人の少女は貧しくて捧げるものがありませんでした。彼女は祭壇のところに行き、かごの上に自分が乗ったそうです。彼女自身を神さまにささげたのです。変だと思うでしょうか?ローマ12:1「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」旧約聖書の時代は、携えてきた動物を殺して、祭壇にささげました。ところが、パウロは死んだからだではなく、あなたがたのからだを生きたささげ物として献げなさい」と言っています。私たちは最後に献金をささげますが、それは私たちの献身のしるしであります。聖日礼拝は月曜日から土曜日までの個人の礼拝の頂点としてささげる礼拝です。私たちの一週間はこの日曜日の礼拝が私たちの生活の頂点であるべきです。礼拝は神さまから何かをいただくためにささげるのではありません。既にいただいている救いと御国を感謝してささげるのです。しかし、そのような礼拝をささげている人に神さまは手ぶらで帰すようなことはしません。一週間、恵まれるように、聖霊の満たしと信仰と豊かな祝福を与えてくださいます。