昔、「希望という名の…」という歌がありました。正確には覚えていませんが、とても暗い、失恋の歌ではなかったかと思います。希望とは日本語で、希な望みと書きますので、めったに叶うことのない「うたかた」のようなイメージがあります。しかし、聖書には「希望」とか「望み」という言葉が信仰と同じくらい出てきます。当教会の週報の表題になっていますが、「いつまでも残るのは、信仰、希望、愛」というのは、神のことばです。
1.希望の効能
第一に、私たちが希望を持つことがどんなに大事なのかということを学びたいと思います。『夜と霧』を書いた、ヴィクトール・フランクルという人がいます。もう一度、読もうと思いましたが、本棚から発見できませんでした。大体はこういう内容です。彼はナチスの強制収容所に実際に捕らえられていたユダヤ人精神科医です。彼は過酷な環境の中、囚人たちは何に絶望したか、何に希望を見いだしたか克明に記しました。収容所では様々な「選抜」が行われました。ガス室に送られるか、あるいはどの収容所に移されるかは、ちょっとした偶然で決まりました。先が見えない中、収容所では「クリスマスに解放される」とのうわさが広まりました。しかし、それがかなわず人々は自暴自棄になりました。「新年になれば、きっと戦争は終わる」、しかし、その希望も打ち砕かれ、人々は生きる力を失っていきました。ところが、「ここを出たら、きっと家族に会える」と、希望を失わなかった人は、生き延びることができたそうです。ヴィクトール・フランクルはこの現象を見て、「希望には大きな力がある」ことを発見しました。
箴言にこのようなことばがあります。箴言13:12「期待が長引くと、心は病む。望みがかなうことは、いのちの木。」とあります。欽定訳聖書は“Hope deferred makes the heart sick”「先延ばしされた希望は心が病む」となっています。ダッチ・シーツという人が『心臓よ、再び鼓動せよ』という本でこのように述べています。「最近のリーダーズ・ダイジェスト誌の記事によれば、重度のうつ病患者は心臓病で死亡する確率が3倍高く、軽度のうつ病患者でも死亡率は通常より50パーセントも高かったとあります。希望が先延ばしにされると、肉体的にも霊的にも病んだ心が生まれます。そして、病んだ心では、人生のレースを効果的に走ることができません。希望が先延ばしにされると、諦め、恐れ、不信、情熱の喪失、人生からの退却、その他多くの心臓病の病気が発生します。希望は魂を拘束するのです。」私は1987年にこの教会に赴任しました。最初の礼拝で「この教会は3年後に100名礼拝になります。ならなかったら辞めます」と豪語しました。あれから38年たちましたが、一度も100名を超えたことがありません。教会が成長するために、いろんなことをやりましたが、どれもうまくいきませんでした。多くの牧師たちは「リバイバルは起こる、リバイバルは起こる」と祈ってきました。しかし、最近はリバイバルではなく、サバイバル、生き残りをかけています。日本キリスト教団には「2030年問題」というのがあり、教勢が今の約20万人から約10万人に半減してしまうことが、統計上予想されるそうです。これは日本の教会全体に言えることであり、牧師も信徒も高齢化して、いなくなるということです。希望をなくしているのは、この世の人たちだけではなく、キリスト教会もそうであるとしたら、まことに残念です。
しかし、私たちは希望にはすばらしい効能があることを知らなければなりません。先程の箴言の後半は「望みがかなうことは、いのちの木」とあります。“But when the desire comes, it is a tree of life.”欽定訳聖書は「望み」は、desireとなっています。desireは「強く欲求する」「願う」「希望する」という意味もあります。私はこの文字が出てきたら「欲望で」はなく「願望」と訳すことにしています。つまり、「望み」はいわゆる「希望」という意味もありますが、願望という心から湧き出る願いがあるんだということです。子どもや青少年には、たくさんのdesire願望があり、それが生きる力となっています。しかし、大人になると現実の壁、度重なる失敗、世の中の逆風によって、去勢された馬のようになります。私も23歳のとき建設業をやめて、英語の仕事をしたいというdesireがありました。その仕事も捨てて、キリストの弟子になりたいというdesireがありました。つまり、自分から来る希望と神さまから与えられる希望がミックスしているということです。希望は、うまくいくという保証のないものです。また、希望は「希な望み」と書きますので、大体は、かなわないものが多いのではないでしょうか。でも、希望を持つことはとても重要です。なぜなら、希望から信仰が生まれるからです。
ヘブル11:1「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。欽定訳聖書は“Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.”直訳は「さて、信仰とは望んでいる事柄を実体化することであり、見えてい物の証拠です」。言い換えると、希望がなければ、信仰も生まれてこないということです。神さまは私たちにdesire願いを与えてくれます。でも、それが信仰と結びつくなら、必ず実現するということです。多くの人たちは、望むだけで終わるのは、信仰まで行かないからです。ペテロは舟を降りて、イエス様のところへ行きたいと願いました。イエス様は「来なさい」と言われました。多くの人は「ペテロは溺れた」と馬鹿にするでしょう。でも、ペテロは少なくとも5,6歩は水の上を歩いたと思われます。新約聖書にはイエス様に望みをかけて、叶えられた人にあふれています。ベテスダの池の近くに、38年間も病気にかかっている人がいました。イエス様は彼を見て「良くなりたいか」と聞かれ、消えかかっていた希望が再生しました。その後、「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言われて、信仰によって立ち上がったのです。このように希望がほとんどない人にも、イエス様が訪れて、希望を与えてくださるとは何と幸いでしょう。本来、私たち、異邦人は救いを受ける希望がありませんでした。しかし、イエス様は天から降りて来られ、希望のない私たちに希望を与え、信仰による救いを与えて下さいました。マタイ12:20「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。」イエス様はたといわずかな希望でも重んじて下さるお方です。
2.希望の源
希望がどこからやってくるのでしょうか?私たちの心の中から湧き出る希望もありますが、神さまが与えて下さる希望もあります。正確には、神さまが私たちの心に働きかけて、希望を持たせてくださるのです。ローマ15:13「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安で、あなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」これはパウロの願いですが、「神さまが聖霊の力によって希望にあふれさせてくださる」と書かれています。しかし、その前に私たちは神様がどうして私たちに希望を与えてくださるのか考える必要があります。このところに「希望の神が」と書かれていますので、私たちに希望を与えるのが神さまのご性質であることが分かります。神さまの道徳的性質は、聖さ、愛、そして善です。神さまは善なるお方です。一人の青年がイエス様のところにやってきて「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。その時、イエス様は「なぜ、私を『良い』と言うのですか、良い方は神おひとりのほか、だれもいません」(マルコ10:18)と言われました。この「良い」ということばは、「good善」であります。“God is good.”という賛美もありますが、神さまは善きお方です。マタイ7章にも、「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」と書かれています。
私はジョエル・オースチンの礼拝メッセージは、おそらく300本は聞いたと思います。現在は遠出のスキーぐらいで、ほとんど聞いていません。なぜか、ほとんど内容が同じだからです。彼のメッセージは「父なる神さまは、必ず良くしてくださる。だから、希望を持ちなさい」というのがほとんどです。どうして、「良いことが起こるのか?」ということを聖書から論理的に語られている訳ではありません。それなのに、どうして毎週2万名の人たちが、あのメッセージを聞きに来るのか不思議でたまりません。「彼のメッセージは功利的で、聖書解釈も乏しい」と批判する人たちもたくさんいます。しかし、ジョエル・オースチンは「私は神さまの希望を語るように召されているのだ」とはっきり答えます。根拠は、神さまが善なるお方だから、良いことが起こるということです。「神さまに期待して生きるなら、必ずそうなります」と、繰り返し話されます。私は、これは1種の宗教だと思いました。「信じる者は救われます。信じる者は祝福されます」というものです。でも、毎週、そのメッセージを聞くために大勢の人たちが集まります。何故でしょう?人々は希望を求めているからです。そして、神さまは善き神さまなので、希望をもって求めるなら気前良く与えてくださるのです。私は理屈ぽいタイプなので、根拠や理由を求めてしまいます。でも、「神さまが善なるお方だから、良いことが起こるに決まっている。だから期待して良いのだ」と信じ切るという信仰生活も有りだと思います。
その根拠をもう少し探りたいと思います。マタイ5:45「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」この世では、良いことが起こると「普段の行いが良いから」と言ったりします。しかし、「悪人にも善人にも」と書かれています。このところには、「信仰がある人に」とも書かれていません。韓国の教会では「朝早く教会に来て、熱心に祈らなければならない」と言っていました。私たちは神さまから良いものをいただくために、熱心に求めなければならないと思ってしまいます。祈りが聞かれるのは、私たちの信仰や熱心さではなく、神さまが善き神さまなので、気前良く与えてくださるのです。言い換えると、私たちの熱心さで神さまを操作したり、コントロールするのは間違っているということです。エペソ3章には驚くべき約束が書かれています。エペソ3:20「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に…」とあります。神さまがどういうお方か?「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできるお方だ」ということです。欽定訳聖書は“exceedingly abundantly above all that we ask or think,”となっています。exceedは「限度や予想などを超える」です、abundantは「たくさんの、有り余るほどの」という意味です。そして、above all that we ask or thinkは「私たちが願い、考えよりもまして」という意味です。ところが、どうでしょう?私たちは求めたものの、1割が叶えられたら良いと思ってはいないでしょうか?求めたもの半分でも叶えられたら夢のようだと思ってはいないでしょうか?それだったら、ケチで、しみったれの神さまです。それは、貧乏の霊にやられている証拠です。放蕩息子が帰った時の父はどうだったでしょうか?「一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい」と言いました。「そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう」とも言いました。放蕩息子が求めたものをはるかに超えていました。私たちの神様は、私たちに良いものを与えたいと願っておられる善い神さまです。
ローマ15:13「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」パウロは神さまのことを「希望の神」と呼んでいます。これは明らかに私たちに良いものを与えたいを願っておられる神さまのことです。ある人たちは、神さまは恐ろしい、厳しい方だと思っています。「この試験に合格しなければ」とか、「良い結果を出さなければ」と条件を突きつけるお方だと思っています。また、ある人たちは「倹約家で、ケチでしみったれだ」と思っているかもしれません。ピューリタンは清貧に甘んずることが信仰深い証だと言いました。牧師の子どもたちは、「贅沢は罪である」と、育てられました。もし、王子や王女が貧しい生活をしていたなら、人々は王様のことを何と思うでしょうか?違います。父なる神は「私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」です。そして、子どもである私たちに、「信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださる」希望の神様です。私たちは神さまに対するイメージを変える必要があります。なぜなら、地上の父の影響を多分に受けて来たからです。条件付きの愛で、育てられてきたからです。私たちの神様は無条件の愛で私たちを愛し、善いものをふんだんに与えたい気前の良い神さまです。
3.希望の囚われ人
ゼカリヤ9:12「望みを持つ捕らわれ人よ、砦に帰れ。わたしは今日もまた告げ知らせる。二倍のものをあなたに返す、と。」文脈的にこのこところ解釈すると、アッシリアやバビロンに捕らえ移された人たちが帰還するという希望のメッセージです。さきほどの「夜と霧」の本のように、収容所に捕らえられていた人たちが、持っていた希望と同じです。しかし、英語の祥訳聖書は、prisoners of hope「希望の囚われ人」と訳しています。つまり、希望によって捕らえられてしまっている人ということです。まるでそれは、ジョエル・オースチンの教会の人たちです。神さまがただ良いお方だということだけで、必ず良いことは起こると期待している人たちです。完全に、希望によって捕らえられているので、失敗とか破滅とかという言葉はないのです。トーマス・エジソンといえば偉大な発明王ですが、数えきれないほどの失敗もしました。こういうエピソードがあります。1914年12月、ニュージャージー州ウエストオレンジにあったエジソンの研究所が大火災に見舞われ、200万ドル相当の機器と彼のライフワークの多くが消失してしまいました。エジソンの息子チャールズは、必死で父の姿を探して走り回りました。「父のことを思うと、胸が痛む。父はもう若くはなく、すべてが破壊されつつある」と思いました。息子が父エジソンを見つると、エジソンは「お前の母親はどこだ。見つけろ。ここに連れて来い。彼女は生きている限り、二度とこのようなものを見ることはないだろう」と言いました。翌朝、多くの希望や夢の焼け跡を歩きながら、67歳のエジソンは「災難には大きな価値がある。私たちの過ちはすべて焼き尽くされた。新しく始められることを神に感謝しよう」と言いました。正気の沙汰とは思えません。まさしく、彼は希望の囚われ人です。
希望の囚われ人の根拠は、ローマ人への手紙5章にもあります。ローマ5:3-5「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」この箇所はとても理解に苦しむ箇所です。順番的に言いますと、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出します。シンプルに言うと、苦難、忍耐、練られた品性、最後にくるのが希望です。そして、「この希望は失望に終わることがありません」となります。希望が最初ではなく、苦難や忍耐を経た後にやっているというのが分かりません。おそらく、「この希望」というのは、「そうなれば良いなー」という淡い希望ではありません。苦難、忍耐を経て練られた品性から生み出されたものです。日本刀は砂鉄から造られます。真っ赤に焼けた鉄を、ハンマーでこれでもか、これでもかと打ち付けます。その後、また炭火に入れられ、ハンマーで打たれて延ばされます。その後、また炭火に入れられ、たたかれるという行程を繰り返し、砥石で磨かれるわけです。何故、たたくのかというと、鉄の中にいろんな不純物が含まれているからです。そして、刃の切れ味を決めるのは焼き入れの水の温度だということです。ジュワーとなって、鉄から鋼になるのでしょう。私たちも最初は砂鉄のような希望をもって神さまに求めます。「叶えられたら良いなー」ぐらいの淡い希望です。あるいは「下手な鉄砲数打てば当たる」みたいな低い確率かもしれません。そこに、苦難がやってきます。火の中を通され、打ちたたかれます。単なる欲望であるなら、その動機がきよめらます。忍耐は、先延ばしにされた希望です。待てど暮らせど、なかなか見えない希望です。箴言のように、「先延ばしされた希望で心が病む」のです。その後、練られた品性がやってきて、希望を生み出します。練られた品性と言うのは、言い換えると「希望の囚われ人」になるということです。後ろの橋を焼き切って、これしかないという状態です。他の選択肢も捨てました、人間の助けも捨てました。もう神さましか頼りにならないという状態です。
ハバクク書に、そこまで行った人のことばがあります。ハバクク3:17-19「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は【主】にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、【神】は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」これは、ユダ王国がバビロンに滅ぼされる寸前の歌です。農作物もダメ、羊も牛もいなくなります。重要なのは「しかし」です。「しかし、私は【主】にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、【神】は、私の力。」この世の希望がまったく失せてしまいました。そのとき、ハバククは「しかし、私は…」と言ったのです。これこそが、練られた品性から生まれた希望ではないか、「希望の囚人」の姿ではないかと思います。私たちはなまじっか頼るものがあるとここまでは行きません。業績や立場、お金や持ち物、人々からの信用…これらのものが全部なくなり、神さましかいない状態です。それらのものを捨てなさいということではありません。エジソンのように、それらのものがあてにならなくなったとき、本当の希望が神さまから与えられるということです。それは淡い単なる希望ではなく、信仰と結びついた確かな希望です。必ず、そうなるという希望です。3年前大川牧師からお電話がありました。アメリカから帰った直後、倒れて入院していました。「いくつになった」と言われて「69歳で、先生と11歳違います」と答えました。そのとき思いました。「私は十分練られまくった。あとは、しるしと奇跡の伴うリバイバルしかないなー。残された10年恥や外聞を捨て、教会の外に出て行き、聖霊によるみわざに賭けるしかない」と思いました。日本人は簡単には信じません。パウロは「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。(Ⅰコリント2:4)と言いました。これまで、これしかない、これしかないとやってはうまくいきませんでした。でも、あと10年しかないので、失敗も成功もありません。単なるリバイバルではありません。しるしと奇跡の伴うリバイバルが日本に起こり、そのために自分が、この教会が用いられることを信じます。パウロが言っています。ローマ5:5「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」